初代海軍部長
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1927年(民国16年)5月、楊樹荘は福建省政府委員会主席に任ぜられる。蒋介石との間では海軍再編などをめぐって一時対立もあったものの、反蒋戦争では「海軍は政治に干渉せず(海軍不干政)」を主張し、一貫して蒋を支持している。蒋は翌1928年(民国17年)12月に軍政部に海軍署を設置し、楊の腹心である陳紹寛を署長に任じた。さらに1929年(民国18年)4月には海軍部が新設され、楊が初代海軍部部長に任ぜられている。このとき、あわせて海軍上将銜を授与された。楊はむしろ福建省の統治強化を望み、海軍部長の事務は陳に委ねている。 しかし楊樹荘は、福建省統治において海軍の勢力浸透を図るあまり、他勢力への配慮を欠いてしまう。その結果、1930年(民国20年)に反楊派が蜂起する事態となった。楊は蒋介石に救援を求めたが、中原大戦最中の蒋に救援の余力は無かった。そのため、楊は方声濤を省政府主席代理として事務を委ねた。こうして、楊樹荘は海軍部長兼福建省政府主席でありながら、どちらも実権を代理に委ねているという状態になってしまう。 翌年12月の蒋介石の下野に伴い海軍部でも人事異動が起こり、陳紹寛が後任の海軍部部長に任ぜられた。楊は海軍部高等顧問に任ぜられたものの、実質的な権力は剥奪されたことになる。1932年(民国21年)12月、蒋光鼐率いる第19路軍が福建省入りし、楊は福建省政府主席からも罷免された。 1934年1月10日、上海で病没。享年53(満51歳)。
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