朝田派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:48 UTC 版)
朝田弓之助(先代) 30年前の政争の時は組頭。時の筆頭家老山村喜兵衛を讒訴によって失脚させ、政権を握った。しかし、3年で政権運営に行き詰まって、遠藤治郎助(先代)によって失脚させられる。 朝田弓之助(当代) 6年前、遠藤治郎助(当代)から政権を奪って家老に就任した。 山根備中 組頭。家柄では藩主家よりも古いとされる名門の出。しかし、代々その名家意識と古くさい権威主義が嫌われて、10代ほどの家系で執政入りしたのはただの2人。当代の備中も万年組頭に甘んじている。思い込みが激しく、過激な行動に走ることがある。 安藤市兵衛 組頭。 黒田欣之助 近習組。清左衛門とおみよとの会話の中身を確かめに来た。朝田派の中で頭角を現しつつある。朝田家老が江戸の石見守に向けて黒田を使者に立てた。 村井寅太 郷方回り。直心流の遣い手。黒田が江戸に使いとして立った時、護衛についた。 成瀬喜兵衛 先代の道場主時代に中根道場で師範代を務めた。その頃は鬼の喜之助と呼ばれる剣客で、清左衛門や入門したての頃の中根弥三郎もしごかれた。にわかにボケてしまったという噂が立った。しかし、それは擬態であった。 金井祐之進 郡奉行配下で山村回り。遠藤派の会合に紛れ込んで騒動を起こした。金井奥之助の息子。 石見守信弘 現藩主の弟。器量は現藩主よりも上だと噂された人物で、先藩主も跡継ぎ選定で、石見守の方を選ぶべきかと迷った経緯がある。現在は、徳川家に仕える旗本として3000石を賜っている。健康で賢いと評判の息子が2人(光五郎信正と友次郎信成)いる。 朝田家老が接触を図っていたが、34歳で健康だったにもかかわらずにわかに病死し、毒を盛られたのではないかという噂が立った。 多田掃部 野塩村の豪農。朝田家老が石見守と共に訪問し、石見守の次男友次郎を藩主の養子に送り込むための運動資金を、黒尻野百町歩の開墾請負許可を餌に願った。掃部は、その資金が養子のための運動ではなく、朝田の地盤固めのために使われることを知りながら、黙って資金提供を行なった。
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