成田空港問題との関わり
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1989年11月30日、三里塚芝山連合空港反対同盟熱田派から公開質問状を受けた江藤は、運輸大臣として成田空港問題について「地元への不十分な説明が問題の長期化が原因」と答えて遺憾の意を表明する文書を郵送し、その旨を12月4日に会見で発表した。運輸大臣が公に成田空港問題について過去の誤りを認めたのはこれが初めてである。 江藤は1990年1月30日に現地を訪問している。反対同盟熱田派の地元住民らは「江藤は絶対に土下座して謝ると思う。」「あいつはそれができる男だ」「ヤツに先に土下座されちゃったら俺らは不利だ」と、百姓の子であることを売り物にしていた江藤が土下座してくることを予測しており、反対同盟のイメージを守るためのパフォーマンスとして反対派は地元の農家の老人が江藤に先んじて土下座することで示し合わせていた。しかし、当日江藤はライトバンで乗り付け、黒塗りの車で大臣がくると思っていた反対派を慌てさせる。江藤の来訪に気づいた老人が手筈通り道路に飛び出して土下座し「これ以上農民を苦しめないでくれ」と訴えると、江藤は自らも膝を地面につき、老人の手を取りながら話し掛けた。また雨天の中反対派農家を回り、卓を囲んで住民の話に耳を傾けるなど、武闘派らしからぬ一面を見せた。 公開質問状に直接答えるという形でこの日横堀公民館で行われた反対派との会談は、激しいやり取りとなった。「はじめにお断りしておきますが、私は百姓の生まれでありまして、頭のてっぺんから爪先まで百姓の血が流れております。そのことを誇りにも思って来たし、貧乏をして育ちましたけれども、貧乏を一度も恥と思ったことはありません」「私を殴って気がすむならそれで結構。誠実に皆さんの気持ちにこたえたい」と切り出した江藤に対し、何か一つでも言質をとろうとする反対派は執拗な質問を続けた。「(昭和)41年以来のやり方あるいは言動について責任があるとおっしゃれば私が甘んじてそれを受けていきます」と語る江藤に対し地元農家が「誰か出刃包丁持ってこいや。大臣に腹切ってもらうべや」と言い放つ局面や、江藤が成田空港の状況を説明しようとした際に「戦車を持っていってぶっ潰す」と反対派に脅しをかけていると受け取られる舌禍を招いて農民たちが激しく反発する一幕もあった。1時間半ほどの会談の中で江藤は「強制収用は念頭に置かず、誠心誠意やっていく」と話した。表面上の議論は平行線をたどったが、現職の運輸大臣が反対派農民と顔を合わせて話をした事自体が、当時としては画期的なことであった。この日の会談に参加した青年行動隊を中心とする農民たちの中で、本音で語りかける江藤に対して悪い印象を持った者はいなかったという。 江藤は後にこの時のことを以下のように振り返っている。 現地について車から降りたら、いきなり道路で土下座されたのでびっくりした。争いをおさめようとするなら強いほうが弱いほうに頭を下げなければならない、こっちが先に頭を下げようと思っていたのに、機先を制せられた。俺はどん百姓の出だから、成田の農民の気持ちは痛いほど分かった。農民は純真で、愚直なほどまじめ。だが、まかり間違うと、てこでも動かなくなる。当時、そういう状態だった。部下にはよく、こう言っていた。死んでも土地を守るというのが本当の農民。農民が売らないから、空港ができないというのは大きな誤りだと。私は、空港問題をこじらせた責任は、むしろ行政のほうにあると思っていた。国はずっと対応を誤ってきた。空港を作ることには熱心だが、周辺住民に対する心配りが欠けていた。農民が過激派と手を結んだのも、やむを得ない面があった。だから、住民に反省の意を込めて、一度おわびして、改めて協力を求めることが大事だと思った。だが、それは役人に任して、やれることではない。政治家が命をかけてやるべきこと。そこで、大臣の私が自ら糸口を見つけるべきだと考えてあの会談を部下に設定させた。空港問題が片付くなら、政治家としてはもう、死んでもかまわないと覚悟を決めて出かけた。--朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、132-133頁。 この会談直後の第39回衆議院議員総選挙で江藤は落選するが、運輸大臣を辞める直前の同年2月21日に「最後に運輸省の誠意を伝えたい」として反対同盟小川派代表の小川嘉吉の自宅を訪問した。玄関の上がり框に腰かけて2時間にわたり小川を待ったが、小川は最期まで顔を出さず、奥の部屋に向かって空港建設への協力を求める口上を述べた後、「今朝は大変失礼しました」としたためた名刺を置いて引き上げた。なお、小川は1996年に新東京国際空港公団への用地売却に応じ、反対闘争を終えている。 また、現役の運輸大臣が現地に赴いて反対派住民の集団と対話したのは江藤が初めてであり、現地訪問は結果として話し合いの機運を生んだことから、元熱田派事務局長は江藤のことを「成田問題の最大の功労者」と評価をしている。江藤が1993年に復活当選した時には空港周辺住民ら50人が当選祝いの会を開き、勲一等旭日大綬章を受けたときにも祝賀会を開催した。江藤が政界を引退した後も、元熱田派は江藤を地元に招いて慰労会を開いている。
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成田空港問題との関わり
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「佐々木更三」の記事における「成田空港問題との関わり」の解説
委員長在任中に三里塚闘争が発生し、闘争初期においては社会党が反対運動の指導的役割を果たしていたことから、空港建設反対派の立木トラストに名義貸しをしていた。 また、佐々木自身も1966年11月29日に現地訪問し、戸村一作ら反対同盟員らに佐藤内閣打倒を訴えるとともに「わたしも東北の百姓の出だから皆様の気持ちはようくわかります」「(一坪)共有地運動を徹底的に進め、絶対に空港建設を阻止しよう」などと東北方言で激励し、党を挙げて反対運動を展開する姿勢を明確にした。 当時の千葉県知事だった友納武人によれば、友納が「この空港問題は、地元にとっては極めて深刻な問題なので、政争の具としないでほしい。国会議員は、国会の中で議論してほしい。政党間の政争を、そのまま地元に持ち込んでは本当に困る。一体あなたは新空港は必要であると思うのか。思うならどこが良いと思うのか」と言ったところ、佐々木は「私は、新空港は必要だと思うが、場所は政府与党でないから、野党は考える必要はない。知事のいうことはもっともだと思うが、今日は私が説得されに来たのではないので…」といって帰ってしまった。 友納は成田空港建設の経緯を振り返り、「政府部内が不統一なもんだから、野党はいい種ができたと政争の具に供したんですね。中央の政党が千葉まであおりに来るんですから。いまの成田空港に難くせつけてみたって、一時間以内の距離のところといえばあそこしかないんです。野党だからと言って、なんでも反対してればいいんだ、与党ではないから代案も考える必要はないんだ、というのは無責任な態度ですよね。諸外国にもそんな無責任な党はありませんよ。みんな国家的、ナショナルな問題では統一した考えを持っています」と述べている。 成田空港問題の資料を展示している成田空港 空と大地の歴史館では、佐々木の名前が記された立木トラストの明認札が展示されている。
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成田空港問題との関わり
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新東京国際空港の反対運動(三里塚闘争)時に用いられた立ち木トラストの明認札(成田空港 空と大地の歴史館)明認札には佐藤行通、佐々木更三、成田知巳の名がある 共産党の石井幸次と親交があり、成田空港問題(三里塚闘争)では、新東京国際空港(現・成田国際空港)の滑走路予定地に三里塚平和塔を建立して非暴力運動の先頭に立った。また、三里塚芝山連合空港反対同盟の小川明治が奉賛会を作るなどして支援した。 1971年の第二次代執行後、三里塚平和塔は滑走路建設に伴い取り壊され、航空科学博物館の隣接地(千葉県成田市東三里塚)にサイズを小さくして移転した。 成田空港問題の資料を展示している成田空港 空と大地の歴史館で、佐藤の名前が記された立木トラストの明認札が展示されている。 共産党系住民団体「三里塚空港から郷土とくらしを守る会」(現・成田空港から郷土とくらしを守る会)の会長としても活動していた。
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成田空港問題との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/05 14:08 UTC 版)
過去には第四インターの活動家として三里塚闘争支援に携わった。1978年3月26日の成田空港管制塔占拠事件では行動隊長として管制塔に突入して管制機器を破壊し、新東京国際空港(現・成田国際空港)の開港を遅らせた。逮捕され、航空危険罪などで懲役9年の判決を受ける。 1981年に最高裁判所の棄却により確定していた、襲撃事件で破壊した航空管制機材等に対する国と新東京国際空港公団への損害賠償金4,400万円に関して、事件から27年後の2005年に遅延損害金も含めて1億300万円の請求が元活動家らやその雇用主に通知された。同年11月11日に、前田ら元受刑者は記者らを集めてカンパ等を通じて集められた1億300万円を国土交通省に届けるパフォーマンスを行った。 1999年に出版された桐原書店から出版された英文法参考書の『総合英語Forest』の編集に携わった。
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成田空港問題との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/24 02:02 UTC 版)
成田市長在任中に成田空港問題が発生し、対応を迫られた。 1966年6月22日に三里塚周辺での新東京国際空港建設が突如内定し、動揺した成田市の地元住民らから説明の要求があり、成田市は住民説明会を1966年6月25日に成田市立三里塚小学校で開催した。 このとき、発表の直前に知事から計画を聞かされていたとはいえ、十分な準備を行うことができないまま説明に臨んだ藤倉は、 空港敷地は三里塚地区とする。 面積は1,065ヘクタールとする。 滑走路は4,000メートルと2,500メートル2本とする。 その他農地補償(具体的な内容は無し)・道路関係について。 といった簡単な内容の原稿を読み上げることしかできず、藤倉は住民らの怒声や罵声を浴び、もみくちゃにされながら退場した。住民らを宥めることに失敗した藤倉は、結果として三里塚闘争の発生を防げなかった。つるし上げを食らった市役所の関係者らが警察の警護を受けて脱出すると、住民らはそのまま会場に残って今後について話し合い、冨里住民らのアドバイスを受けつつ、その日のうちに三里塚芝山連合空港反対同盟の前身である三里塚空港反対同盟の結成を決めたといわれる。 詳細は「成田空港問題の年表」を参照 地元説明会は6月27日にも市役所で行われたがそれ以降実施されず、市議会で問われた藤倉は「市民全体に説明するのがよいが、なかなかできないし、時間も切迫していた。役員(区長)を通じて連絡するのが一番徹底するし正確」と答弁した 。 なお、後に三里塚芝山連合空港反対同盟の事務局長となり反対同盟分裂後には北原派を率いることとなる北原鉱治や反対同盟副委員長を務めた石橋政次は、三里塚闘争が発生するまで藤倉の参謀役であった。 藤倉は「私は成田市長としてこの問題について市民の皆様方のご意見ご要望を十分お聞きして県や国へ伝え、また国及び県からの言い分を皆様にお伝えして、あくまでも市民の皆様方の立場を考えて将来不幸の内容に努力することこそが私に与えられた任務であります。」と表明し、市街地での衝突を懸念した警察が反対派の集会会場を市営グラウンドから変更させるよう求めてきた時も慎重な姿勢を崩さなかったが、自宅には昼夜を分かたず反対派による嫌がらせや抗議が殺到し、生家である料亭にも「不死苦羅死弔(ふじくらしちょう)おむかえ、おむかえ」と書かれた看板を立てられるなどした。 藤倉は成田空港問題の激務と心労により1970年9月1日に病に倒れ、その後再起不能の重体となったことから、第一次代執行直後の1971年4月22日に辞意を表明し、同28日に臨時議会で承認された。同年5月1日には成田市の名誉市民に推戴されたが、成田空港の完成を見ることなく11月11日に死去した。
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成田空港問題との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 02:05 UTC 版)
小川は、空港問題発生当初、社会党県議としてオルグを現地に送り込み、反対同盟の結成や一坪共有地運動を主導するなどして、富里・八街及び成田・芝山の新東京国際空港(現・成田国際空港)反対運動を支援していた。そのため闘争初期の反対派の間では、どこの反対同盟員の家にも小川の写真が置かれ、農家の後継者の仲人や子供の命名を頼まれる程の人気であった。 小川は1987年まで一坪共有地を保有し、一坪運動での国会議員最後の地主であったが、開港後は対話による解決に尽力した。なお、小川は一坪共有地を旧地主に返上しているが、その人物は返上の3週間後に土地を新東京国際空港公団に売却している。また、党や労働組合に働きかけて一坪共有地の解消手続きを推進した。このことは自民党議員からも「おい、一坪どうなった」と冷やかされたが、「新幹線の予定地を買い占めて、もうけるような人とは違うよ」とやり返している。小川が所有していた一坪共有地には革労協の拠点「木の根団結砦」の敷地も含まれる。 1967年1月10日に開かれた空港建設の公聴会で反対の立場から公述を行い、開港に際しては「(公聴会で)私は内陸空港のもつ欠陥を強く指摘したが、11年後の現在もそれは変わっていない。数年後には成田空港の移転が問題になるだろう」と述べていた小川であったが、成田市長就任後は成田空港を生かした地域発展を目指し、B滑走路建設に向けて反対派の説得に回った。小川はこの心境の変化について、「中途半端な空港と共存する故郷の姿は見ていられなかった」としている。 小川の取り組みについては、「空港問題に気丈に向き合う中で、反対闘争の収束に大きく貢献した。」との関係者の評価がある一方で、反対同盟北原派や中核派からは裏切りであるとして非難の対象となっていた。
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