成田空港問題との関わりとは? わかりやすく解説

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成田空港問題との関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 04:48 UTC 版)

江藤隆美」の記事における「成田空港問題との関わり」の解説

1989年11月30日三里塚芝山連合空港反対同盟熱田派から公開質問状受けた江藤は、運輸大臣として成田空港問題について「地元への不十分な説明問題長期化原因」と答えて遺憾の意表明する文書郵送しその旨12月4日会見発表した運輸大臣公に成田空港問題について過去誤り認めたのはこれが初めてである。 江藤1990年1月30日現地訪問している。反対同盟熱田派の地元住民らは「江藤絶対に土下座して謝ると思う。」「あいつはそれができる男だ」「ヤツ先に土下座されちゃった俺ら不利だ」と、百姓の子であることを売り物にしていた江藤土下座してくることを予測しており、反対同盟イメージを守るためのパフォーマンスとして反対派地元農家老人江藤先んじて土下座することで示し合わせていた。しかし、当日江藤ライトバン乗り付け黒塗り車で大臣がくると思っていた反対派慌てさせる。江藤来訪に気づいた老人手筈通り道路に飛び出して土下座しこれ以上農民苦しめないでくれ」と訴えると、江藤は自らも膝を地面につき、老人の手取りながら話し掛けた。また雨天の中反対派農家回り、卓を囲んで住民の話に耳を傾けるなど、武闘派らしからぬ一面見せた公開質問状直接答えるという形でこの日横堀公民館行われた反対派との会談は、激しやり取りとなった。「はじめにお断りしておきますが、私は百姓生まれでありまして、頭のてっぺんから爪先まで百姓の血が流れておりますそのこと誇りにも思って来たし、貧乏をして育ちましたけれども、貧乏を一度も恥と思ったことはありません」「私を殴って気がすむならそれで結構。誠実に皆さん気持ちこたえたい」と切り出した江藤対し、何か一つでも言質をとろうとする反対派執拗な質問続けた。「(昭和41年以来やり方あるいは言動について責任があるとおっしゃれば私が甘んじてそれを受けていきます」と語る江藤対し地元農家が「誰か出刃包丁持ってこいや。大臣腹切ってもらうべや」と言い放つ局面や、江藤成田空港状況説明しようとした際に「戦車持っていってぶっ潰す」と反対派脅しをかけていると受け取られる舌禍招いて農民たちが激しく反発する一幕もあった。1時間半ほどの会談の中で江藤は「強制収用念頭に置かず誠心誠意やっていく」と話した表面上の議論平行線たどったが、現職運輸大臣反対派農民顔を合わせて話をした事自体が、当時としては画期的なことであった。この日の会談参加した青年行動隊中心とする農民たちの中で、本音語りかける江藤に対して悪い印象持った者はいなかったという。 江藤は後にこの時のことを以下のように振り返っている。 現地について車から降りたら、いきなり道路土下座されたのでびっくりした。争いをおさめようとするなら強いほうが弱いほうに頭を下げなければならない、こっちが先に頭を下げようと思っていたのに、機先制せられた。俺はどん百姓の出だから、成田農民気持ち痛いほど分かった農民純真で、愚直なほどまじめ。だが、まかり間違うと、てこでも動かなくなる。当時そういう状態だった。部下にはよく、こう言っていた。死んで土地を守るというのが本当農民農民売らないから、空港できないというのは大きな誤りだと。私は、空港問題こじらせた責任は、むしろ行政のほうにあると思っていた。国はずっと対応を誤ってきた。空港作ることには熱心だが、周辺住民対す心配り欠けていた。農民過激派手を結んだのも、やむを得ない面があった。だから、住民反省の意込めて一度おわびして、改め協力求めることが大事だ思った。だが、それは役人任して、やれることではない。政治家が命をかけてやるべきこと。そこで、大臣の私が自ら糸口を見つけるべきだと考えてあの会談を部下設定させた。空港問題が片付くなら、政治家としてはもう、死んでかまわない覚悟決めて出かけた。--朝日新聞成田支局ドラム缶鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド1998年、132-133頁。 この会談直後第39回衆議院議員総選挙江藤落選するが、運輸大臣辞める直前同年2月21日に「最後に運輸省誠意伝えたい」として反対同盟小川派代表の小川嘉吉自宅訪問した玄関の上がり腰かけて2時間にわたり小川待ったが、小川最期まで顔を出さず、奥の部屋向かって空港建設への協力求め口上述べた後、「今朝は大変失礼しました」としたためた名刺置いて引き上げた。なお、小川1996年新東京国際空港公団への用地売却応じ反対闘争終えている。 また、現役運輸大臣現地赴いて反対派住民集団対話したのは江藤初めてであり、現地訪問結果として話し合い機運生んだことから、元熱田事務局長江藤のことを「成田問題最大功労者」と評価をしている。江藤1993年復活当選した時には空港周辺住民50人が当選祝いの会を開き勲一等旭日大綬章受けたときにも祝賀会開催した江藤政界引退した後も、元熱田派は江藤地元招いて慰労会開いている。

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成田空港問題との関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 10:19 UTC 版)

佐々木更三」の記事における「成田空港問題との関わり」の解説

委員長在任中に三里塚闘争発生し闘争初期においては社会党反対運動指導的役割果たしていたことから、空港建設反対派立木トラスト名義貸しをしていた。 また、佐々木自身1966年11月29日現地訪問し戸村一作反対同盟員らに佐藤内閣打倒訴えとともに「わたしも東北百姓の出だから皆様気持ちはようくわかります」「(一坪共有地運動徹底的に進め絶対に空港建設阻止しよう」などと東北方言激励し、党を挙げて反対運動展開する姿勢明確にした。 当時千葉県知事だった友納武人によれば、友納が「この空港問題は、地元にとっては極めて深刻な問題なので、政争の具としないでほしい。国会議員は、国会の中で議論してほしい。政党間の政争を、そのまま地元持ち込んで本当に困る。一体あなたは新空港は必要であると思うのか。思うならどこが良いと思うのか」と言ったところ、佐々木は「私は、新空港必要だと思うが、場所は政府与党でないから、野党考える必要はない。知事のいうことはもっともだと思うが、今日は私が説得されに来たのではないので…」といって帰ってしまった。 友納は成田空港建設経緯振り返り、「政府部内不統一もんだから野党はいい種ができたと政争の具供したんですね。中央の政党千葉まであおりに来るんですから。いまの成田空港難くせつけてみたって、一時間以内の距離のところといえばあそこしかないんです。野党だからと言って、なんでも反対してればいいんだ、与党ではないか代案考える必要はないんだ、というのは無責任な態度ですよね。諸外国にもそんな無責任な党はありませんよ。みんな国家的ナショナル問題では統一した考え持っています」と述べている。 成田空港問題資料展示している成田空港 空と大地の歴史館では、佐々木の名前が記され立木トラストの明認展示されている。

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成田空港問題との関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/26 15:13 UTC 版)

佐藤行通」の記事における「成田空港問題との関わり」の解説

新東京国際空港反対運動三里塚闘争時に用いられ立ち木トラストの明認成田空港 空と大地の歴史館)明認には佐藤行通佐々木更三成田知巳名がある 共産党石井幸次と親交があり、成田空港問題三里塚闘争)では、新東京国際空港現・成国際空港)の滑走路予定地に三里塚平和塔建立して非暴力運動先頭立ったまた、三里塚芝山連合空港反対同盟小川明治が奉賛会作るなどして支援した1971年第二次代執行後、三里塚平和塔滑走路建設に伴い取り壊され航空科学博物館隣接地千葉県成田市東三里塚)にサイズ小さくして移転した成田空港問題資料展示している成田空港 空と大地の歴史館で、佐藤の名前が記され立木トラストの明認展示されている。 共産党住民団体三里塚空港から郷土とくらしを守る会」(現・成空港から郷土とくらしを守る会)の会長として活動していた。

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成田空港問題との関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/05 14:08 UTC 版)

前田道彦」の記事における「成田空港問題との関わり」の解説

過去には第四インター活動家として三里塚闘争支援携わった1978年3月26日成田空港管制塔占拠事件では行動隊長として管制塔突入して管制機器破壊し新東京国際空港現・成国際空港)の開港遅らせた逮捕され航空危険罪などで懲役9年判決を受ける。 1981年最高裁判所棄却により確定していた、襲撃事件破壊した航空管制機材等に対する国と新東京国際空港公団への損害賠償金4,400万円に関して事件から27年後の2005年遅延損害金含めて1億300万円請求が元活動家らやその雇用主通知された。同年11月11日に、前田ら元受刑者記者らを集めてカンパ等を通じて集められ1億300万円国土交通省届けパフォーマンス行った1999年出版され桐原書店から出版され英文法参考書の『総合英語Forest』の編集携わった

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成田空港問題との関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/24 02:02 UTC 版)

藤倉武男」の記事における「成田空港問題との関わり」の解説

成田市在任中に成田空港問題発生し、対応を迫られた。 1966年6月22日三里塚周辺での新東京国際空港建設突如内定し動揺した成田市地元住民らから説明要求があり、成田市住民説明会1966年6月25日成田市立三里塚小学校開催した。 このとき、発表直前知事から計画聞かされていたとはいえ十分な準備を行うことができないまま説明臨んだ藤倉は、 空港敷地三里塚地区とする。 面積は1,065ヘクタールとする。 滑走路は4,000メートルと2,500メートル2本とする。 その他農地補償具体的な内容無し)・道路関係について。 といった簡単な内容原稿読み上げることしかできず、藤倉住民らの怒声罵声浴びもみくちゃにされながら退場した住民らを宥めることに失敗した藤倉は、結果として三里塚闘争発生防げなかった。つるし上げ食らった市役所関係者らが警察警護受けて脱出すると、住民らはそのまま会場残って今後について話し合い、冨里住民らのアドバイスを受けつつ、その日のうちに三里塚芝山連合空港反対同盟前身である三里塚空港反対同盟結成決めたといわれる詳細は「成田空港問題の年表」を参照 地元説明会6月27日にも市役所行われたそれ以降実施されず、市議会問われ藤倉は「市民全体説明するのがよいが、なかなかできないし、時間切迫していた。役員区長)を通じて連絡するのが一番徹底するし正確」と答弁した 。 なお、後に三里塚芝山連合空港反対同盟事務局長となり反対同盟分裂後には北原派を率いることとなる北原鉱治反対同盟副委員長務めた石橋政次は、三里塚闘争発生するまで藤倉参謀であった藤倉は「私は成田市長としてこの問題について市民皆様方のご意見ご要望を十分お聞きして県や国へ伝え、また国及び県からの言い分皆様お伝えして、あくまでも市民皆様方の立場考えて将来不幸の内容努力することこそが私に与えられ任務であります。」と表明し市街地での衝突懸念した警察反対派集会会場市営グラウンドから変更させるよう求めてきた時も慎重な姿勢を崩さなかったが、自宅には昼夜を分かたず反対派による嫌がらせ抗議殺到し生家である料亭にも「不死苦羅死弔(ふじくらしちょうおむかえおむかえと書かれた看板立てられるなどした。 藤倉成田空港問題激務心労により1970年9月1日に病に倒れその後再起不能重体となったことから、第一次代執行直後1971年4月22日辞意表明し、同28日臨時議会承認された。同年5月1日には成田市名誉市民推戴されたが、成田空港完成を見ることなく11月11日死去した

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成田空港問題との関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 02:05 UTC 版)

小川国彦」の記事における「成田空港問題との関わり」の解説

小川は、空港問題発生当初社会党県議としてオルグ現地送り込み反対同盟の結成や一共有地運動主導するなどして、富里八街及び成田芝山新東京国際空港現・成国際空港反対運動支援していた。そのため闘争初期反対派の間では、どこの反対同盟員の家にも小川写真置かれ農家後継者仲人子供命名頼まれる程の人気であった小川1987年まで一坪共有地保有し一坪運動での国会議員最後地主であったが、開港後対話による解決尽力した。なお、小川一坪共有地旧地主に返上しているが、その人物は返上の3週間後に土地新東京国際空港公団売却している。また、党や労働組合働きかけ一坪共有地解消手続き推進した。このことは自民党議員からも「おい、一坪うなった」と冷やかされたが、「新幹線予定地を買い占めて、もうけるような人とは違うよ」とやり返している。小川所有していた一坪共有地には革労協拠点木の根団結砦」の敷地含まれる1967年1月10日開かれた空港建設公聴会反対の立場から公述行い開港に際しては「(公聴会で)私は内陸空港のもつ欠陥強く指摘したが、11年後の現在もそれは変わっていない。数年後には成田空港移転問題になるだろう」と述べていた小川であったが、成田市就任後成田空港生かした地域発展目指しB滑走路建設向けて反対派説得回った小川はこの心境の変化について、「中途半端な空港共存する故郷の姿は見ていられなかった」としている。 小川取り組みについては、「空港問題気丈に向き合う中で、反対闘争収束大きく貢献した。」との関係者評価がある一方で反対同盟北原派や中核派からは裏切りであるとして非難対象となっていた。

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