成田空港問題シンポジウム・円卓会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 03:21 UTC 版)
「三里塚芝山連合空港反対同盟」の記事における「成田空港問題シンポジウム・円卓会議」の解説
詳細は「成田空港問題円卓会議」を参照 北原派と袂を分かって以来、事務局主導のもとに比較的穏健な大衆運動路線をとってきた「熱田派」は、次々と世代交代をしていく政府側に対し闘争継続する農民が高齢化していくことへの危機感を深め、東峰十字路事件の温情判決を契機に政府との話し合いの方向で動き始めた。 1990年1月30日には江藤隆美運輸大臣と熱田派との公開会談がもたれ、1991年4月9日には地元主導の第三者的仲介機関として発足した地域振興連絡協議会が空港公団・千葉県、ならびに反対同盟の「熱田派」「北原派」「小川派」それぞれに公開シンポジウム参加を申し入れた。 「熱田派」は「強制収用放棄の再確認」を含む五条件を提示して参加を表明するが、内部ではシンポジウムで成果を上げて闘争に終止符を打とうとする者やシンポジウムを完全空港化を阻止する手段として捉える者、更には話し合いそのものを否定する者もおり、熱田一も自分の名前を冠した組織が話し合いを行うことを拒絶し代表を辞任する(以降、「旧熱田派」)等、分裂の様相を呈した。熱田の代表辞任後は、柳川秀夫が世話人として代表を務める。 一方、「北原派」と「小川派」はシンポジウム参加を拒否した。特に北原派は「公開シンポジウムに協力する脱落派を徹底弾劾する」との声明を出し、支援過激派もゲリラ事件を繰り返しながら千葉県収用委員会会長襲撃事件と同様のテロを仄めかして恫喝した。 1991年11月21日、反対同盟「旧熱田派」が参加する「成田空港問題シンポジウム」が公開の場で実現し、以後1993年5月まで15回開かれる。シンポジウムに引き続き、「成田空港問題円卓会議」が開催される。最終的に、政府は過去の強硬姿勢を謝罪し、2期工事の土地問題を解決するために、いかなる状況のもとにおいても強制的手段をとらないことを確約。土地収用法による土地収用採決申請などの強制収用手続きは全て取り下げた。
※この「成田空港問題シンポジウム・円卓会議」の解説は、「三里塚芝山連合空港反対同盟」の解説の一部です。
「成田空港問題シンポジウム・円卓会議」を含む「三里塚芝山連合空港反対同盟」の記事については、「三里塚芝山連合空港反対同盟」の概要を参照ください。
- 成田空港問題シンポジウム・円卓会議のページへのリンク