アメリカ軍機動部隊との戦い
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「比叡 (戦艦)」の記事における「アメリカ軍機動部隊との戦い」の解説
アメリカ軍の継戦意欲を砕くため、山本五十六連合艦隊司令長官は残存する米空母の撃滅を企図した。ミッドウェー島を占領し、ハワイから進出してくるアメリカ軍機動部隊・艦隊を迎撃するという作戦である。5月、第三戦隊の中で編成替えが行われる。第1小隊(比叡、金剛)、第2小隊(榛名、霧島)となり、第一小隊(比叡、金剛)は近藤信竹中将の第二艦隊(攻略部隊本隊)に加わり、第2小隊(榛名、霧島)は南雲機動部隊に編入された。5月29日、比叡は日本を出発した。6月5日、日本軍とアメリカ軍の間にミッドウェー海戦が勃発した。近藤艦隊は南雲部隊から距離340浬・28 kt12時間の地点で空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)被弾炎上という速報を受信する。近藤中将は直ちに東方へ進軍を命じアメリカ軍機動部隊との水上戦闘を企図したが、アメリカ軍機動部隊は日本軍との夜戦を嫌って東方へ反転退避する。さらにレーダーを搭載した戦艦日向は山本長官以下第一戦隊(大和、長門、陸奥)とともに遥か西方にあり、近藤中将は夜戦を断念し続いて山本長官の退却命令により退却行動に入った。空母瑞鳳、第三戦隊、第五戦隊、第八戦隊等は北方へ進出、アリューシャン方面の戦いに投入される。支援部隊(第一支援隊〈比叡、利根、筑摩、秋雲、風雲、夕雲、巻雲、旭東丸〉、第二支援部隊〈妙高、羽黒、金剛、阿武隈、第21駆逐隊、朝雲、夏雲、峯雲、玄洋丸〉)を編成。アリューシャン方面で哨戒任務についたがアメリカ軍機動部隊は出現せず7月11日、横須賀に帰港した。 7月14日、戦時編制が改訂された。南雲忠一中将、草鹿龍之介参謀長指揮のもと、第一航空戦隊(空母:翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)・第二航空戦隊(空母:飛鷹、隼鷹、龍驤)を中核とする第三艦隊が編成され、金剛型2隻(比叡、霧島)は第十一戦隊(司令官阿部弘毅少将)を形成して第三艦隊専属部隊となった。8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動し、アメリカ軍機動部隊の支援の元、ガダルカナル島とフロリダ諸島ツラギ島にアメリカ海兵隊が上陸、これらを占領した(ガダルカナル島の戦い、フロリダ諸島の戦い)。日本軍はラバウルから一式陸上攻撃機を、水上からは外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官/中将(7月まで比叡に座乗)率いる外南洋部隊・第八艦隊を迎撃に向かわせた。日本軍航空隊は「軽巡2隻、輸送船10隻、大巡1隻大火災、中巡1隻大破傾斜、駆逐艦2隻火災、輸送船1隻火災」を報告、第八艦隊は第一次ソロモン海戦で「巡洋艦10隻撃沈、駆逐艦4隻撃沈」を報告した。実際には、第八艦隊は重巡洋艦4隻を沈めたものの、航空隊の戦果は駆逐艦2隻撃沈、駆逐艦2隻大破だけだった。 8月16日、比叡以下第三艦隊はトラック島に向けて日本を出発した。この時点で空母3隻(第二航空戦隊〈隼鷹、飛鷹〉、一航戦〈瑞鳳〉)は訓練途中だったため、ソロモン諸島に向かった空母は3隻(翔鶴、瑞鶴、龍驤)だけだった。第三艦隊は主に2つの集団で構成され、空母と少数の護衛部隊(艦艇)からなる本隊、第十一戦隊(比叡、霧島)・第七戦隊(重巡洋艦:鈴谷、熊野)・第八戦隊(重巡洋艦:利根、筑摩)の前衛艦隊に分かれている。前衛艦隊は空母部隊から100-150浬前方に進出して横一列陣形(艦間隔10-20km)をとり、索敵と敵機の攻撃を吸収する役割を担った。いわば囮となる前衛艦隊将兵からは不満が続出したが、指揮官達は新陣形・新戦法を検討する時間も与えられないまま最前線へ進出した。 8月21日、アメリカ軍機動部隊出現の報告により第三艦隊はトラック入港を中止し、前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官(旗艦愛宕)指揮下の第二艦隊(前進部隊)と合流した。近藤中将は第三艦隊を指揮する南雲中将より先任だったため、形式上は近藤中将が南雲中将と機動部隊を指揮することになっていたが、近藤司令部と南雲司令部はお互いの情報交換・戦術のすり合わせを一度も行ったことがなかった。8月24日の第二次ソロモン海戦では、第三艦隊前衛部隊は機動部隊本隊からわずか5-10浬程度しか進出せず、近藤中将の第二艦隊は第三艦隊が無線封鎖をしているために味方の位置すら掴めなかった。24-25日にわたる一連の戦闘と作戦で、日本軍は3隻(龍驤、睦月、金龍丸)を喪失した。また、軽巡神通と水上機母艦千歳も中破した。龍驤沈没分を含め零戦30、艦爆23、艦攻6、水偵3を喪失した。アメリカ軍は空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-06)が中破して航空機20を失った。前衛部隊はB-17重爆に空襲され、戦艦霧島と駆逐艦舞風の付近に弾着したが被害はなかった。この戦闘で比叡は零式水上観測機1機をSBDドーントレスとの空戦により失っている。ガダルカナル島へ向かう輸送船団(第二水雷戦隊護衛)が撃退されたことで、ガ島戦は新たな局面を迎える。8月28日、第三艦隊はトラック泊地に到着した。 9月10日、ソロモン諸島北東海面に向けてトラック泊地を出撃、アメリカ軍機動部隊を捜索したが会敵できず、9月23日にトラック泊地に戻った。 約1ヶ月後の10月26日、ガダルカナル島の日本陸軍総攻撃を支援する日本海軍と同海域の制海権を確保しようとするアメリカ軍機動部隊との間に南太平洋海戦が勃発した。南雲機動部隊は第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)を基幹とする本隊(指揮官南雲忠一第三艦隊司令長官)と、第十一戦隊司令官を指揮官とする前衛部隊(戦艦〈比叡、霧島〉、重巡〈鈴谷、利根、筑摩〉、第十戦隊、補給部隊(油槽船6隻、駆逐艦野分)に分離して行動した。機動部隊前衛部隊は米空母2隻(ホーネット、エンタープライズ)攻撃隊の空襲を受け「筑摩」が大破した。前衛部隊にそれ以上の被害はなかった。つづいて前衛部隊は、前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官:旗艦愛宕)の指揮下に入り、撤退するアメリカ軍機動部隊を追撃することになった。前衛部隊の行動は積極性を欠いていたが、ともかく前進部隊(第二艦隊)に合同して追撃を開始。航行不能になっていた空母ホーネット(USS Hornet, CV-08)を捕捉し、ホーネットの撃沈に成功している。日本軍は当初アメリカ軍の主力空母3隻、戦艦1隻(籠マスト)、大巡1隻、駆逐艦1隻、艦型不詳1隻(大巡以上)を撃沈したと誤認していた。
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アメリカ軍機動部隊との戦い
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「巻雲 (夕雲型駆逐艦)」の記事における「アメリカ軍機動部隊との戦い」の解説
第十戦隊は1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦が初陣となった。アメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃により空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)が被弾炎上、赤城を第4駆逐隊第1小隊(嵐、野分)、加賀を第4駆逐隊第2小隊(萩風、舞風)、「蒼龍」を第17駆逐隊第2小隊(浜風、磯風)が護衛し、各艦乗組員の救助をおこなった。夕雲、巻雲は蒼龍の乗員救助を行った後、最後まで戦闘を続けていた空母飛龍の救援に向かった。飛龍の乗組員は巻雲、風雲に移乗した。巻雲は魚雷1本を発射して飛龍を雷撃処分した。巻雲以下残存艦隊は飛龍の沈没を確認しないまま西方に退避した。6日になり空母鳳翔偵察機が漂流する飛龍を発見、そのため飛龍を確実に処分すべく第17駆逐隊谷風が派遣される。谷風はアメリカ軍機動部隊艦載機の襲撃を受けつつも生還した。海戦後、第十駆逐隊は6月13日に呉に帰投した。 7月14日、臨時編成の第一航空艦隊が解散して第三艦隊が編成され、南雲中将が司令官となった。第十戦隊から第七駆逐隊が外れ、第四駆逐隊および第十六駆逐隊が編入される。第十戦隊は軽巡長良以下第四駆逐隊(嵐、野分、萩風、舞風)、第十駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲、秋雲)、第十六駆逐隊(雪風、時津風、天津風、初風)、第十七駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)という戦力を揃えた。8月7日、ガダルカナル島とフロリダ諸島にアメリカ軍が上陸してガダルカナル島の戦いが始まった。8月16日、第三艦隊は柱島泊地を出撃してトラック諸島に向かうが、アメリカ機動部隊が出現した事によりソロモン諸島東方海域に急行した。8月24日の第二次ソロモン海戦でも空母の直衛を務めた。9月29日、秋雲とともに第三水雷戦隊(橋本信太郎中将〔海軍兵学校41期〕)の指揮下に入り、ショートランドへ進出してすぐにガダルカナル島への鼠輸送に参加する。10月3日と6日の輸送ではタサファロングに、10月9日にはカミンボにそれぞれ舞鶴第四特別陸戦隊や第二師団(丸山政男中将)の兵員や軍需物資を陸揚げした。 詳細は「南太平洋海戦」を参照 10月26日の南太平洋海戦では前衛部隊に配された。日米両機動部隊の激闘の末、アメリカ空母ホーネットは爆弾5発と魚雷3本が命中して大破し、損害は甚大で復旧不能と判断したアメリカ軍はホーネットの曳航を断念、鹵獲を避けるべくホーネットの処分を試み、駆逐艦マスティン(英語版) (USS Mustin, DD-413) およびアンダーソン(英語版) (USS Anderson, DD-411) に処分をゆだねた。マスティンとアンダーソンは魚雷9本と400発に及ぶ5インチ砲の砲撃を行ったが、ホーネットは沈まなかった。そうこうしている内に、前衛部隊が迫ってきたので米駆逐艦2隻は避退していった。 「事情許さば、拿捕曳航されたし」という宇垣纏少将/連合艦隊参謀長(海軍兵学校40期)の命令を受けて巻雲と秋雲は前衛部隊から分離した。日が暮れようとする海原を前進すると、彼方から遠雷のような砲声を聞いた。これは、先に米駆逐艦2隻がホーネットに砲弾と魚雷を撃ち込んでいた音だったと考えられた。やがて、前方の水平線上が赤味を帯びているのが見えた。接近してみると炎上して漂流中のホーネットだった。ホーネットはいたるところから火を噴き、艦首からは曳航されていたことを物語るロープが数本垂れ下がっていた。「秋雲」が12.7センチ砲弾24発を水線下に命中させたものの微動だにせず、魚雷での処分に切り替えられた。巻雲と秋雲は各魚雷2本発射し、4本のうち3本が命中。巻雲艦長によれば、最初の1本は艦首に命中して傾斜が復元し、2本目を反対舷に発射し、3本目で沈没、「此ノ駆逐艦魚雷ヲ三本モ打チ込ンデヤツト沈メタノニハ、ナサケナキ限リナリシ」と回想している。一方、「秋雲」ではホーネットの断末魔を記録して軍令部に提出すべく、絵の上手な信号員に炎上中のホーネットを描くよう命じた。秋雲駆逐艦長相馬正平少佐はスケッチの助けにしてやろうと、ホーネットに向けて何度もサーチライトを照射したが、巻雲側は秋雲側の突然のサーチライト照射の真意をつかめず、「如何セシヤ」の発光信号を送った。やがてホーネットの火災は艦全体に広がった。ホーネットは10月27日午前1時35分、サンタクルーズ諸島沖に沈んでいった。前述のように、日本側は連合艦隊司令部からの命令に従ってホーネットの拿捕曳航を行おうとしたが、最終的に断念している。また、秋雲信号員がスケッチしたホーネットの最期の姿も残されている。10月30日、トラックに帰投。この時、「秋雲」の推進器に異常が発生したため内地帰投となり、「秋雲」から魚雷と弾薬を譲り受けた。「秋雲」は南太平洋海戦で損傷した損傷艦(翔鶴、瑞鳳、筑摩、熊野)等を護衛して内地へ帰投した。
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