アメリカ軍捕虜時代
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この時、真珠湾攻撃で使用された「特潜」は全部で5艇(乗員10名)であったが、当初は全艇が集合地点に帰還しなかった上に、米軍のラジオ放送などで撃沈されたと報じられたことから全員が戦死したものと考えられた。その後、米軍のラジオ放送から酒巻が生存し捕虜となったことが公表されたものの、酒巻が捕虜となったことは日本海軍によって秘密にされた。 日本海軍は酒巻以外の全員を戦死扱いとし、大本営は戦死した9名を「九軍神」として1942年3月に発表した。酒巻の15歳年下の弟は、実家を訪ねてきた海軍将校が特殊潜航艇乗り組みであることは伏せて「戦死」と伝え、後日来訪した将校は「生死不明」としたうえ他言無用と告げたことを記憶している。 酒巻は1944年(昭和19年)8月31日附で予備役編入とされている。 捕虜収容所では自決を願うも拒否された。収容所で真珠湾攻撃のために収容されていたハワイ浄土宗第8代総長の名護忍亮師から捕虜として生きていく教えを受け(名護も日露戦争に従軍して捕虜になった経験を持つ)、ハワイの収容所からアメリカ本土の収容所に移された後は、同じく自決を決行しようとする日本軍兵士捕虜に対し、自決を止める様に説得して止めさせている。 日本語通訳としても働き、捕虜としての態度が立派であったため、アメリカ軍関係者も酒巻を賞賛した。
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