戦線膠着
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5月から7月にかけて連合軍、オスマン軍ともに何度も攻勢を展開して戦局を打開しようとしたが、どちらも敵側に阻まれ戦線が大きく動く事はなかった。5月には上陸部隊を支援していたイギリス前弩級戦艦3隻が魚雷攻撃によって相次いで(中旬にオスマン帝国駆逐艦ムアーヴェネティ・ミッリイェによりゴライアスが、下旬にドイツ潜水艦 U-21 によりトライアンフ及びマジェスティックが)撃沈されたため、海軍は戦線を離脱した。 8月に入ると連合軍新鋭2個師団がアンザック入江北側のスブラ湾に上陸し、攻勢を試みたが、オスマン軍がいち早く高地を占拠したため、ここでも橋頭堡を確保する以上の進展は見られず、塹壕戦となった。アンザック入江とスブラ湾の橋頭堡を連絡させようとする連合軍の最後の8月大攻勢も失敗に終わり、オスマン領内へのさらなる進撃は望めない状態となる。
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戦線膠着
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この勝利によってハンニバルの名声は頂点に達した。南イタリアのカプア、シチリア島のシラクサは、カルタゴに味方することを宣言、以降3年に亘ってローマと戦いを繰り広げることとなる。しかしそれ以外のローマと同盟都市との結束は崩れず、この最優先戦略目的に関する誤算がハンニバルに重くのしかかっていくことになる。紀元前217年にハンニバルと同盟を結んでいたマケドニア王ピリッポス5世も行動を開始し、第一次マケドニア戦争が勃発した。しかし、マケドニア艦隊はイタリア半島に到達することができず、直接ハンニバルを支援することはできなかった。敵地での補給に苦しむカルタゴ軍は、首都ローマを攻めずに肥沃でカルタゴ本国とも連絡をつけやすい半島南部へ主攻を切り替えた。 一方のローマは壊滅的な大敗北に絶望していた。ローマ人は神に助けを請い、人身御供を捧げることにした。数人の奴隷が殺され、フォルムに埋められた。これはローマにおける最後の人身御供として記録されている。元老院はファビウスの考えが正しかったことを悟り、ファビウス(この頃には、クンクタトルの意味が『ぐず』より前向きな意味に変化したとも言われ、『ローマの盾』とも言われた)、とマルクス・クラウディウス・マルケッルス(ファビウスに対し『ローマの剣』と呼ばれた)を執政官として態勢の立て直しを図った。そしてマルケッルスは第一次ノラの戦いで勝利を収めたことで、ハンニバル相手にも勝ちうることを示してカンナエで消沈したローマ人を勇気づけた。基本戦略としてファビウスの持久戦略を採用してハンニバルとの決戦を避け、同時に攻撃対象をシチリア島(マルケッルスが攻略)、ヒスパニアなどのカルタゴ周辺へと変更して外からの切り崩しを狙った。そしてティベリウス・センプロニウス・グラックスに「奴隷軍団」を組織させてマルケッルスらと共にハンニバル包囲網を担わせる。さらに優勢な海軍力を生かしてカルタゴ海軍を脅かし、カルタゴ本国からのハンニバルへの補給を断った。
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戦線膠着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
日本軍は25日まで4,400名の死傷者を出しており、早急な戦力補充が必要であった。一方ソ連軍の死者は、1991年のロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐の報告で、7月中で日本軍を上回る6,240名の死傷者(戦死1,242名)とされていたが、ワルターノフ大佐の報告は、2001年のロシア歴史家の共同研究『20世紀の戦争におけるロシア・ソ連:統計的分析』で過少と判明しており(#ソ連軍の損失参照)実際は7,000名以上の死傷者を出していたものと推定される。 しかし、損害が遥かに大きかったソ連軍には続々と援軍が到着していたのに対し、第23師団に満州全域の各部隊から抽出した4,000名の補充兵が到着するのはまだ先のことで、関東軍は第23師団が現状でこれ以上の攻勢を維持するのは困難であると考え、総攻撃2日目の24日に第23師団に対し陣地を構築して防衛体制に入れと命令した。この命令を主導したのも辻であったが、辻は満州の自然を熟知しており、「満州近辺の冬は零下51度にもなる。9月には降雪が始まる。そんな状況で攻勢作戦をとれば冬越えの準備が疎かとなり、兵士は戦ではなく寒さに凍え死ぬことになる」と意見具申し、この作戦の大転換を決めてしまった。 しかし、兵士の越冬対策を第1目的に考えるのであれば、敵の砲撃が届かないハイラル地区か第23師団司令部が置かれている将軍廟付近まで退いて、耐寒設備のある兵舎に収容するのが常識的判断であり、駐ソ大使館付の土居明夫駐在武官が「ハルハ河より適宜離隔せる位置に、至短時間に最も効果的な陣地を構築すべき」と進言したのもそれを含んでのことであったが関東軍は「係争中の右(東)岸地区を確保することは絶対に必要なり」と決意しており、部隊を後退させる意思は全くなかった。ソ連軍は8月になってからも、西岸の重砲が15分間に2,000発以上の支援砲撃を行う下で歩兵による形勢回復のための攻撃をしてきたが、いずれも撃退している。しかし、西岸重砲の砲火をしのぎつつ、増強される一方の西岸ソ連軍と戦い、その合間に越冬準備しながら陣地構築するのは至難の業で、結局、ソ連軍の総攻撃までに陣地は3分の1程度しか完成させることができなかった。
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戦線膠着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:23 UTC 版)
内陸部での作戦では海上補給は不可能であるため、カルタゴ陸軍は、その補給を陸上の補給拠点や同盟軍に依存していたと思われる。アギリオン領に入ったマゴは、アギリスにカルタゴ側に付くように説得することには失敗した。続いて、カルタゴ軍はギリシア軍の迎撃に動いたが、数的に劣勢なディオニュシオスは後退し、カルタゴ軍をアギリオンから離れるように誘導した。
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