カンナエとは? わかりやすく解説

カンナエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/13 23:45 UTC 版)

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座標: 北緯41度17分47秒 東経16度09分06秒 / 北緯41.29639度 東経16.15167度 / 41.29639; 16.15167 カンナエラテン語: Cannae)は、イタリア半島南東部のアプリア地方、アウフィドゥス川(現在のオファント川)沿いに存在していた村、およびその周辺のこと。ラテン語の読みの違いにより「カンナエ」のほかカンネーカンネの表記もされる。現在のプッリャ州バルレッタカンネ・デッラ・バッターリアイタリア語: Canne della Battaglia)にあたる。

第二次ポエニ戦争中の紀元前216年8月2日ハンニバル率いるカルタゴ軍と、ルキウス・アエミリウス・パウルスガイウス・テレンティウス・ウァロ率いるローマ軍が戦った(カンナエの戦い)。この会戦が右岸と左岸のどちらかで戦われたのか、現在でも論争が続いている。歴史上でも稀な包囲殲滅戦が行われた古戦場として名高い。


カンナエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 23:55 UTC 版)

第二次ポエニ戦争」の記事における「カンナエ」の解説

紀元前216年8月2日アプリア地方のカンナエ近郊両軍対峙当日指揮官であるウァロ決断しローマ軍80,000(うち10,000名が陣地残留)はカルタゴ軍50,000決戦挑んだ戦闘序盤カルタゴ軍左翼騎兵ローマ軍右翼騎兵撃退続いてローマ軍後方迂回して反対側の翼へ回り込み右翼騎兵ローマ騎兵挟撃した。ローマ軍中央カルタゴ軍中央猛攻撃加えていたが、戦闘前ハンニバル弓なり歩兵戦列を配置していたため、徐々に押し込まれながらも持ちこたえていた。カルタゴ軍歩兵戦列の両翼配され古参アフリカ人傭兵互角戦い繰り広げており、ローマ軍中央V字になりつつあった。そこへローマ騎兵撃退したカルタゴ騎兵が、歩兵戦列の後方回り込み、完全な包囲態勢完成した恐慌状態に陥ったローマ軍密集し中央圧死発生、さらに外周から徐々に殺戮され、突破口を開くこともできずに殲滅された。ローマ軍損害は、死傷60,000名、捕虜10,000名という破滅的なものであり、執政官パウルスと約80名の元老院議員戦死した。この戦いは、完全包囲成功させた最初戦例であり、さらにまた自軍倍する敵軍包囲殲滅した稀有戦例である。ハンニバル傑出した軍才を証明するものといえるだろう(カンナエの戦い)。

※この「カンナエ」の解説は、「第二次ポエニ戦争」の解説の一部です。
「カンナエ」を含む「第二次ポエニ戦争」の記事については、「第二次ポエニ戦争」の概要を参照ください。

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