戦線の停滞とは? わかりやすく解説

戦線の停滞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:38 UTC 版)

平宗盛」の記事における「戦線の停滞」の解説

8月になると宗盛追討使として平貞能鎮西に、平通盛経正北陸派遣する14日には北陸道追討宣旨下り京都にいる兵力だけでは反乱鎮圧が困難であることから、藤原秀衡陸奥守城助職越後守となった現地豪族国司になることは前代未聞で、九条兼実は「天下の恥」と憤慨している。 北陸道平氏知行国多く京都への重要な食料補給路であり、兵站地として確保しなければならない地域だった。しかし通盛越前水津敗れ越前国府を失陥し、経正若狭国境を越えることができず、北陸道反乱軍の手落ちる。鎮西向かった貞能も備中逗留して兵粮欠乏訴え有様だった。 10月になると宗盛は、北陸道に知度・清房(宗盛異母弟)・重衡・資盛、東海道東山道維盛清経重盛の子)、熊野に頼盛の子息2名を派遣するという大規模な遠征計画立てる。最も重要な洛中守護宗盛・教盛・経盛・頼盛・知盛担当した。この時、宗盛とともに洛中に留まった者が政権中枢にあった考えられる宗盛地位を脅かす障害重盛小松家であり、小松家危険な遠征軍として最前線送られることになった。しかし遠征計画延引繰り返して結局は実施されず、11月には北陸道派遣されていた通盛京都引き返した一方後白河法皇平氏傀儡となることを潔しとせず、勢力基盤回復努めていた。4月10日安徳天皇八条頼盛邸から閑院に遷し、11月25日徳子院号宣下を受けると殿上人を自ら清撰している。 天皇母后平氏から引き離す狙いがあったと見られる。翌養和2年1182年3月には、藤原定能藤原光能高階泰経還任して「去る治承三年解官人々。去る冬今春除目過半還補」となり、壊滅状態だった院政派も息を吹き返した。宗盛政治的発言力を高め後白河法皇への対応に苦慮していたらしく、平氏後白河法皇連絡交渉担当する親宗に「天下の乱、君の御政の不当等、偏に汝の所為なり。故禅門遺恨ありし時、直にこれを報答す。宗盛に於いては尋常存じ万事存ぜざるが如く知らざるが如し。仍つてことに於て面目損ず頗る怨み申す所なり」と八つ当たりとも取れ発言をしている。 ただし、九条兼実代表される貴族層は日和見態度取ったため、後白河法皇一挙に主導権を握ることはできなかった。この年養和の飢饉影響大規模な軍事活動行われず内外情勢一種膠着状態となる。9月4日宗盛権大納言還任し、10月3日には内大臣となる。11月24日には、戦乱延期されていた安徳天皇大嘗会執り行われた。

※この「戦線の停滞」の解説は、「平宗盛」の解説の一部です。
「戦線の停滞」を含む「平宗盛」の記事については、「平宗盛」の概要を参照ください。

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