第一・二次アキャブ作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 10:04 UTC 版)
1940年(昭和16年)8月には陸軍大佐に任ぜられ、1941年(昭和17年)3月には歩兵第112連隊長(丸亀連隊)を拝命する。歩兵第112連隊ではビルマ戡定作戦を達成し、次いで第55師団の基幹部隊として第一次アキャブ作戦(三十一号作戦)にてビルマのインデン付近で英軍第6旅団を殲滅した。また、第二次アキャブ作戦(ハ号作戦)に於いてはシンゼイワ盆地に英軍第7師団を包囲し、弾薬や糧食が欠乏していたにも拘らず勇戦敢闘した。しかし、当初優勢だった戦況もその後物資に恵まれた連合軍に押されて戦死者や餓死者は日に日に増え、無謀な総攻撃命令ばかりを出す師団長の戦略や敵の糧食を奪い取ることを前提として4日間の糧食しか持たされなかったずさんな計画が影響して戦線は壊滅状態となる。業を煮やした棚橋は「これ以上、天皇の赤子を殺すに忍ばず」として、軍法違反を覚悟の上で師団長との無線を封鎖し生き残った部下約400名を率いて独断で撤退した。後には第二次アキャブ作戦で展開していた各部隊も戦線崩壊し作戦は1か月余りで中止となり日本軍は惨敗した。棚橋は1944年(昭和19年)4月11日に連隊長を更迭され、更にはマラリヤに罹患したことを理由に内地帰還させられる。
※この「第一・二次アキャブ作戦」の解説は、「棚橋真作」の解説の一部です。
「第一・二次アキャブ作戦」を含む「棚橋真作」の記事については、「棚橋真作」の概要を参照ください。
- 第一・二次アキャブ作戦のページへのリンク