民主革命から社会主義革命までの流れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:33 UTC 版)
「2月革命 (1917年)」の記事における「民主革命から社会主義革命までの流れ」の解説
西欧型の立憲君主制の創設と自由主義改革の実現を目指したパーヴェル・ミリュコーフの率いる自由主義政党「立憲民主党(カデット)」が主導権を握っていたドゥーマ(ロシア帝国国会)は1916年に11月にツァーリズムを見限り、「爆弾演説」を行うなど議会は帝政政府は対立路線を取っていた。その最中に民主革命(市民革命)である2月革命が起きると、当時の帝国議会議員らで臨時政府樹立が宣言された。カデット主流派を中心とした第一次ロシア臨時政府は、ミハイル大公を後継にして、西欧的な立憲君主制国へロシア帝国を変えることで、ロマノフ王朝宣延命をはかった。しかし、ミハイル大公が帝位を継ぐことを拒絶し、皇帝ニコライ2世が後継の無いまま退位したことで300年間続いたロマノフ朝による帝政(ロシア帝国)は崩壊した。臨時政府ではあったが、カデットなどから構成される政権が出来たことでロシア初の民主派政権が誕生した。第一次臨時政府は西欧型の立憲民主政治を志向した一方で、女性参政権や司法の独立など当時の欧州で最も先進的な政策を打ち出した。しかし、同年4月20日に外交では連合国から東部戦線維持の要求に臨時政府外務大臣となったミリュコーフは敗戦前提の停戦をも求める庶民や兵士の世論を無視したミリュコーフ通牒と呼ばれる書簡を送り、ロシアは連合国側として単独講和しないこと・戦争継続を約束した。戦争続行というミリュコーフの決定は、厭戦気分に満ちたロシア国民の怒りを買う結果となった。ペトログラードの庶民、兵士たちはデモを行い、ミリュコーフとグチコフ陸海軍大臣は辞任を余儀なくされた。そして、穏健社会主義政党である社会革命党(エスエル)、封建農奴社会を資本主義社会に変えて、大衆政党である我らが国民を率いるべきと主張するメンシェビキを中心とする社会主義者たちも参画する第一次連立政府が成立した。
※この「民主革命から社会主義革命までの流れ」の解説は、「2月革命 (1917年)」の解説の一部です。
「民主革命から社会主義革命までの流れ」を含む「2月革命 (1917年)」の記事については、「2月革命 (1917年)」の概要を参照ください。
- 民主革命から社会主義革命までの流れのページへのリンク