民主音楽協会との関係
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東京バレエ団が世界に飛び立つ前、1964年(昭和39年)の東京バレエ団の発足に伴い、民主音楽協会の理事長である秋谷栄之助と事務局長の大久保直彦から公演の打診があった。民主音楽協会は創価学会系であり「労音の息がかかっていない団体」として、東京バレエ団に白羽の矢を立てたのである。佐々木は「労音にも民音にも出られるし、団員に創価学会に入ってくれということならお断りします」と念を押した。この後、しばらくの間は、佐々木の世界戦略にとって民音とのつながりは大きな力となった。しかしバレエ公演に慣れない民音は、バレエに不向きな会場を押さえたり、ときに会場に犬が入ってきたこともあった。 1965年(昭和40年)秋谷から「民音の活動を世界に広げたい」との打診を受けた。佐々木自身も、モーリス・ベジャール・20世紀バレエ団、クランコのシュツットガルトバレエ団、パリ・オペラ座バレエ団、イギリスのロイヤル・バレエ、ソ連のボリショイバレエ団など「世界のバレエ団を日本に呼びたい」と考えていたのである。このプランは1966年(昭和41年)に「民音世界バレエシリーズ」として結実し、第1回目はソ連のノヴォシビルスク・バレエ団に決まった。佐々木は1966年(昭和41年)2月マイナス40℃のノヴォシビルスクに交渉に行っている。2か月後には第2回の視察のため秋谷とともにブリュッセルの王立モネ劇場に行き、モーリス・ベジャールの20世紀バレエ団の公演を観た。また佐々木と秋谷はミラノ・スカラ座まで足を伸ばし、以前「スカラ座は国立だから交渉相手は国でなければならない」と言われたことに対し、秋谷が政治力を行使して文部省と外務省に招聘状のようなものを作ってもらい、仮契約までこぎつけた。しかしスカラ座が来日するにはまだ15年かかるのである。 ブリュッセル・王立モネ劇場のモーリス・ベジャール・20世紀バレエ団については、佐々木一人で剛腕のマネージャーと対峙し、滑り込みセーフで契約にこぎつけた。20世紀バレエ団は1967年5月に初来日した。主催は民音と毎日新聞社、「ジャパン・アート・スタッフ」(佐々木の会社でNBSの前身の一つ)が舞台製作をした。このときロミオとジュリエットを踊った3組のうち一組が、ジョルジュ・ドンと浅川仁美のペアだった。ドンはクロード・ルルーシュ監督映画『愛と悲しみのボレロ』を通して知られ、15年後に全国を公演することになる。
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