東京バレエ団が世界に飛び立つ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:00 UTC 版)
「佐々木忠次」の記事における「東京バレエ団が世界に飛び立つ」の解説
バレエ学校の設立からわずか5年、バレエ団設立からわずか1年しか経っていないにも関わらず、いきなり海外公演をすることは無謀と思えた。しかし佐々木には勝算があった。ぴたっと揃ったコール・ド・バレエ(群舞)である。日本人は「ここまで足を上げろ」といえば全員が同じところまで上げる。発足間もない東京バレエ団にあって、短足、O脚の日本人が世界と勝負できるのはコール・ドによるアンサンブルしかない、と佐々木は見抜いていたのである。 ソ連文化省から公演の招待状は1965年(昭和40年)秋、公演は翌年8月とあった。持って行く演目は『ジゼル』『まりも』をメインに、『ジゼル』を振り付けてくれたオリガ・タラーソワがつくった小品『アーラとローリー』そしてもう一つSKDのレビュー演出家飛鳥亮振付の『日本の四季』であった。 ソ連公演のメンバーは団長佐々木、副団長京田進、『まりも』の作曲家石井歓、指揮者の秋山和慶、舞台監督の田原進、照明の石井尚郎のスタッフは18人。ダンサーは53人。 初のソ連公演ということもあり、見送りメンバーはソ連大使館のチェルノフ一等書記官、ロシア文学者の野崎韶夫、民主音楽協会の大久保直彦などがいた。 訪ソメンバーは各地で大歓迎を受けた。公演はカザンでは6日間、2番目のレニングラード(現: サンクトペテルブルク)でも6日間、最後はモスクワのクレムリン劇場で10日間。いずれも大成功であった。東京バレエ団はソ連文化省から「チャイコフスキー記念」という冠称を受領した(したがって東京バレエ団の正式名称は『チャイコフスキー記念東京バレエ団』である)。
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