東京バレエ団代表へ、そしてインプレサリオへとは? わかりやすく解説

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東京バレエ団代表へ、そしてインプレサリオへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:00 UTC 版)

佐々木忠次」の記事における「東京バレエ団代表へ、そしてインプレサリオへ」の解説

東京バレエ学校は、コミュニスト広吉が日本におけるソ連の「陣地」を作る目論見1960年昭和35年)に結成したソ連からははワルラーモフとメッセレルという二人指導者迎え1962年昭和37年)2回の公演『まりも』は成功裡終わりソ連からの招待の話まで持ち上がったが、早くも経営危機に陥っている。さらにはソ連日本共産党との関係怪しくなり、当初二人指導者帰国した後は1年指導者派遣されてこなかった。谷桃子たちは学校去り生徒一部谷桃子バレエ団へと移っていった。ソ連公演はおろか佐々木への『まりも』の制作費すら支払われなかったが、佐々木1963年昭和38年)に『白鳥の湖』の制作引き受け東京バレエ学校深く関わっていく。ついに1964年昭和39年東京バレエ学校倒産佐々木のもとには、ソ連大使館や、残った助手生徒父母たちから存続を願う声が集まった佐々木は、バレエ学校ではなくプロフェッショナルなバレエ団なら経営携わろう決心し東京バレエ団の代表となった佐々木世界で通用するバレエ団目指し早くも1965年昭和40年)に渡欧した。さっそく日本公演舞台演出助手をした国立パリ・オペラ座歌劇団のスタッフ訪ねパリ・オペラ座バレエを観ている。さらにはパリ・オペラ座英国ロイヤル歌劇団の引っ越し公演 マリア・カラスプッチーニトスカ』を観た。また、ラヴェルダフニスとクロエ』も観た。日本でも引っ越し公演をしたいという強い欲求生まれた佐々木国立パリ・オペラ座歌劇団のスタッフヨーロッパバレエ団演目についてもアドバイス求めモーリス・ベジャール20世紀バレエ団ジョン・クランコ率いシュトゥットガルト・バレエ団強く惹かれた。また、演目は『ジゼル』を勧められた。 佐々木その後ミラノ飛び、のちに16年スカラ座交渉する通訳のアルマ・ラウリアと面会さらにはウィーン・フォルクスオーパー支配人をいきなり訪ねレハールメリー・ウィドウ』の日本公演打診している。次いでモスクワ寄り、ワルラーモフとメッセレル再会しジゼル』のアドバイスをもらうとともに東京へオリガ・タラーソワを派遣する指名得た加えて東京バレエ学校時代ソ連招待公演の話を『東京バレエ団公演振り替えてもらうよう働きかけた。

※この「東京バレエ団代表へ、そしてインプレサリオへ」の解説は、「佐々木忠次」の解説の一部です。
「東京バレエ団代表へ、そしてインプレサリオへ」を含む「佐々木忠次」の記事については、「佐々木忠次」の概要を参照ください。

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