東京バレエ団代表へ、そしてインプレサリオへ
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「佐々木忠次」の記事における「東京バレエ団代表へ、そしてインプレサリオへ」の解説
東京バレエ学校は、コミュニストの林広吉が日本におけるソ連の「陣地」を作る目論見で1960年(昭和35年)に結成した。ソ連からははワルラーモフとメッセレルという二人の指導者を迎え、1962年(昭和37年)2回の公演『まりも』は成功裡に終わり、ソ連からの招待の話まで持ち上がったが、早くも経営危機に陥っている。さらにはソ連と日本共産党との関係が怪しくなり、当初の二人の指導者が帰国した後は1年も指導者が派遣されてこなかった。谷桃子たちは学校を去り、生徒の一部は谷桃子バレエ団へと移っていった。ソ連公演はおろか、佐々木への『まりも』の制作費すら支払われなかったが、佐々木は1963年(昭和38年)に『白鳥の湖』の制作を引き受け、東京バレエ学校に深く関わっていく。ついに1964年(昭和39年)東京バレエ学校は倒産。佐々木のもとには、ソ連大使館や、残った助手、生徒の父母たちから、存続を願う声が集まった。佐々木は、バレエ学校ではなく、プロフェッショナルなバレエ団なら経営に携わろうと決心し、東京バレエ団の代表となった。 佐々木は世界で通用するバレエ団を目指し、早くも1965年(昭和40年)に渡欧した。さっそく日本公演で舞台演出助手をした国立パリ・オペラ座歌劇団のスタッフを訪ね、パリ・オペラ座のバレエを観ている。さらにはパリ・オペラ座で英国ロイヤル歌劇団の引っ越し公演 マリア・カラスのプッチーニ『トスカ』を観た。また、ラヴェル『ダフニスとクロエ』も観た。日本でも引っ越し公演をしたいという強い欲求が生まれた。佐々木は国立パリ・オペラ座歌劇団のスタッフにヨーロッパのバレエ団と演目についてもアドバイスを求め、モーリス・ベジャールの20世紀バレエ団とジョン・クランコ率いるシュトゥットガルト・バレエ団に強く惹かれた。また、演目は『ジゼル』を勧められた。 佐々木はその後ミラノに飛び、のちに16年間スカラ座と交渉する通訳のアルマ・ラウリアと面会。さらにはウィーン・フォルクスオーパーの支配人をいきなり訪ね、レハール『メリー・ウィドウ』の日本公演を打診している。次いでモスクワに寄り、ワルラーモフとメッセレルに再会し『ジゼル』のアドバイスをもらうとともに、東京へオリガ・タラーソワを派遣する指名を得た。加えて、東京バレエ学校時代のソ連招待公演の話を『東京バレエ団』公演に振り替えてもらうよう働きかけた。
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