オランダ軍の第二次警察行動
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「インドネシア独立戦争」の記事における「オランダ軍の第二次警察行動」の解説
1948年1月23日、同協定を批准する見込みのなかったアミル・シャリフディン内閣は総辞職し、その後を引き継ぐ内閣を担う意思と能力のある政治家は既存の政党にはいなかった。大統領スカルノは、1月29日、副大統領ハッタに超党派の内閣を組織させ(首相と国防相を兼任)、レンヴィル後の国内混乱を収拾し、オランダとの外交交渉を継続していくことになった。 一方で、レンヴィル協定に反対するインドネシア共産党(PKI)をはじめとする徹底抗戦派および左派勢力が糾合され、スカルノ、ハッタらの外交路線と対立した。この政府と左派勢力の対立のなかで、1948年9月18日、PKIの影響下にある部隊がジャワ島東部のマディウンで政府機関を襲撃し、革命政府樹立を宣言した(マディウン事件)。1ヶ月ほどでこの反乱は鎮圧されたが、共和国内部での混乱に乗じて、オランダは12月11日和平会談決裂を宣言、12月19日早朝に共和国領内への全面攻勢が開始された(オランダではこれを「第二次警察行動」という)。 オランダ空軍の爆撃機によってジョクジャカルタのマグオ空港が空爆され、オランダ海兵隊と蘭印軍が地上から侵攻し、12月23日までにはジョグジャカルタを陥落させた。当時、ジョクジャカルタの共和国側には3個中隊の兵力しかなく、オランダはスカルノ大統領、首相兼副大統領ハッタ、そして閣僚の大半を逮捕した。 共和国側はスマトラで臨時政府樹立(臨時首相はシャフルディン・プラウィラネガラ蔵相)を宣言、逮捕されたスカルノもオランダとの交渉継続を破棄し、徹底抗戦を全国民に訴えた。このように共和国政府の存続を国際的にアピールするとともに、インドネシア側の武装勢力も組織的な抵抗を開始した。スディルマン国軍司令官の号令の下、農村部や地方都市でゲリラ戦や治安の撹乱をすすめ、1949年3月1日にはオランダ占領下のジョグジャカルタ奪還作戦を敢行し、一時オランダ軍を窮地に追い込んだ。 オランダの全面攻勢によってインドネシア共和国は存続の危機に瀕したが、オランダの軍事的勝利は外交的敗北の始まりだった。オランダがインドネシアの各地で設立した傀儡国家では急速にオランダ離れがすすみ、これらの地域が後にインドネシア共和国に合流する素地を作った。また、国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難し、国連安保理は12月24日の決議でオランダに共和国指導者の釈放を要求した。とりわけ、マディウン事件で左派勢力を一掃したハッタ政権を高く評価していたアメリカは、オランダへの経済援助の停止を通告し、和平協議復帰への圧力をかけた。 こうした国際世論の圧力のもとにオランダは和平受諾に追い込まれて行く。また、インドネシアにおける過大な軍事費支出は、ドイツの占領で疲弊したオランダ経済にとって耐え難いものとなっていたのである。
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