オランダ軍への反撃
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「ムハンマド・ダウド・シャー」の記事における「オランダ軍への反撃」の解説
ムハンマド・ダウド・シャーの元には各地のウラマー、ウレーバラン、民衆が結集してゲリラ部隊を組織し、反撃を受けたオランダ軍はコタラジャ周辺20平方キロメートルの範囲に押し留められていた。オランダ軍との主要な戦闘は、ムハンマド・ダウド・シャーから信頼を得たトゥンク・チ・ディ・ティロが指揮官として参加した。しかし、1891年に彼が暗殺された後、アチェ軍の士気は低下し、次第にオランダ軍が優勢となる。 オランダ軍は現地の有力者を懐柔してアチェ軍の分裂を図った。これによりアチェ軍は追い詰められ、ムハンマド・ダウド・シャーはパンリマ・ポレム9世と共に捕縛を免れるため、北西部への逃亡を余儀なくされた。1887年にはアブドゥルマジドがオランダ軍に降伏している。ムハンマド・ダウド・シャーは西部海岸の指揮官にトゥク・ウマールを任命し、ティロ死後のオランダ軍との戦闘を指揮したが、彼は1893年にオランダ軍に降伏している。ムハンマド・ダウド・シャーはウマールに書簡を送り帰参するように命令しているが、ウマールはオランダ軍の動向をアチェ軍に伝え、1896年にオランダ軍から脱走して帰参した。
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オランダ軍への反撃
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「トゥク・ウマール」の記事における「オランダ軍への反撃」の解説
1891年、アチェ・ゲリラの指導者トゥンク・チ・ディ・ティロが暗殺され、オランダ軍が勢力を盛り返していった。ウマールは荒廃する農地や村を見て次第に戦意を喪失し、1893年9月にオランダ軍のデイケルホーフ知事に降伏した。デイケルホーフは降伏を受け入れ、ウマールに「ヨハン・パラワン」の名前を与えた。妻ディンは夫の降伏に激怒し、ウマールは孤立した。降伏後のウマールはオランダ軍に忠実に従いアチェ軍の動向を伝えたため、オランダ軍から信頼された。しかし、実際にはオランダ軍から得た給金をアチェ・ゲリラ指導者に渡し、軍議の席で得た情報を伝えるなどしており、ディンはオランダ軍の情勢を探るために夫が降伏したことを知った。 1896年3月30日にウマールは800丁の銃、2万5,000個の爆弾、500キロの弾薬、1万8,000ドルの資金を持ち出してオランダ軍から脱走した。このため、デイケルホーフは責任を問われて知事職を解任された。脱走したウマールはゲリラを指揮するウラマーたちと合流し、本格的な反抗作戦する。ウマールはディンと共にパンリマ・ポレム9世の部隊400人と合流してオランダ軍を攻撃し、25人を殺害して190人を負傷させた。1898年4月1日には他のウラマー、ウレーバランと共にスルターンのムハンマド・ダウド・シャーに忠誠を宣誓した。
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