臨時教育会議の周辺
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寺内内閣倒壊後も審議を続けていた臨時教育会議は、1919年(大正8年)1月に「教育の効果を完からしむべき一般施設に関する建議」を内閣総理大臣原敬に提出する。また、同月には皇典講究所とその管下の国学院大学が天皇の御沙汰により年々の補助金を賜わることになる。その事情は以下のとおりである。 これより先、臨時教育会議では江木千之委員らがその改革案の趣旨を貫徹させるために国学を振起する必要を感じる。官立大学は国学振起を担う状況にないので、私学の中から探したところ、皇典講究所管下の国学院大学が適切であるということで話がまとまり、その拡張を図ることになる。 1918年(大正7年)5月、皇典講究所総裁竹田宮恒久王が令旨の形式をもって皇典講究所と国学院大学の拡張を命じる。令旨に曰く、世界大乱が民心に及ぼす影響が更に甚だしくなりつつある。この時にあたって皇典講究所と国学院大学は設立の趣旨に則り、国体の本義を明らかにし、道義の精神を徹底させ、教育の規模を拡張し、もって国家の柱石たる人材を養成し、斯道のために大成を期さなくてはならない、と。以後の拡張計画はこの令旨に基づくものとされる。同年7月に皇典講究所国学院大学拡張委員会を設け、政府の臨時教育会議からは小松原英太郎が拡張委員長に、江木千之、早川千吉郎が拡張委員に就く。 同年10月に臨時教育会議では平沼騏一郎・北条時敬・早川千吉郎の3委員が「人心の帰嚮統一に関する建議案」を総会に提出する。提出者は3名とも平沼の主催する無窮会のメンバーである。小松原英太郎と江木千之は賛成者に名を連ねる。江木は実質的な提出者の一人でもあると自称している。 同年12月、皇典講究所の組織を改革して理事会を置き、小松原英太郎、江木千之、早川千吉郎らが理事に就く。小松原は皇典講究所長にも選ばれる。そして皇典講究所・国学院大学は拡張趣意書と拡張計画を発表して募金を呼び掛ける。趣意書に曰く「皇典講究所および国学院大学は、尊厳なる国体を講明し、堅実なる国民精神を発揮し、真摯なる方法によって典故文献を研究するを以って目的とする」。「物質的文明に偏したる弊毒は深く民心に浸潤し、国民道徳の頽廃はあまねく思想界の危機たらんとする」。「これ、本所(皇典講究所)ならびに本学(国学院大学)が、大いに内容を改善し、規模を拡張し、ますます本来の意義を発揮して、もって国民精神を振興せんと欲する所以なり」と。また、拡張計画では、第1期事業の「典故文献の講究」について「我が国が世界無比の国体を有すると同時にその典故文献の講究を要すべきもの枚挙にいとまあらず」、「同時に現代思潮もまた調査研究してこれが善導に資する」といい、「講演」について「動揺せる思潮を善導し、目下の危機を救う唯一の方法は、我が世界無比の国体を闡明し、国民の自覚を促すにあり、よってあまねく講演会を開催し、主義宣伝の捷径たらしめんとす」といい、第2期事業の「国法科設置」に「我が国体と民族とに適合する法律の研究は目下の急務なり」という。 この間、臨時教育会議の「人心の帰嚮統一に関する建議案」は、主査委員会で整理修正され、その題名を「教育の効果を完からしむべき一般施設に関する建議」と改め、総会で揉めたあげくに別途修正して可決され、1919年(大正8年)1月に原首相へ提出される。建議に曰く、時局各般の影響により我が思想界の変調は予測できず、誠に憂慮に堪えない。時弊を救わんと欲すれば、国民思想の帰嚮を統一し、その適従するところを定める必要がある。そしてその帰嚮するところは、建国以降扶植培養された本邦固有の文化を基礎とし、時世の進展に伴いその発展大成を期することにある、と。そしてその要目は以下のようにいう。 国体の本義を明徴にして、これを中外に顕彰する。 わが国固有の醇風美俗を維持し、これに副わない法律制度を改正する。 各国文化の長を採るとともに、いたずらにその模倣にとどまらず、独創的精神を振作する。 建国の精神の正義大道により世界の大勢に処する。 社会の協調を図り、一般国民の生活を安定させる。 このうち「国体の本義を明徴に」云々の要目は当初案の「敬神崇祖の念を普及せしむる」という項目を改めたものである。その内容は建議附属の理由書に詳しい。理由書に次のようにいう(大意)。 我が国は建国の初めから君臣の義は確乎として定まる。歴代朝廷の仁恵恩沢が深厚であることは天地のように自然である。 海内一家、億兆人民が仲良く皇室を奉戴し、代々蓄積醸成して、ついに一団として情に厚い美俗を成した。これは他国に類例を見ないものであり、国家組織の善美の極致である。 この国体の本義を明徴にし、これを中外に顕彰するには、すべからくその根本精髄を明確詳細に理解させる必要がある。たとえば以下の事実などについて深く留意させるべきである。 建国がひとえに君徳に由来する事実、 古来王道を治国の大方針として今日に至る事実、 神聖が忠孝をもって国を建て、武をとうとび、民命を重んじた事実、 皇室と臣民の関係は自然の結合に成り、義は君臣にして情は父子のごとく、建国より今日まで一日も動揺しない事実、 われら臣民の先祖が赤誠をもって皇室に仕え、子々孫々その意を継承して今日に至り、もって忠孝一本の良俗を成せる事実、 維新の初め、明治天皇が五箇条の御誓文を神明に誓い、皇室みずから進んで立憲政治の発端を啓いた事実、 帝国憲法は、皇祖皇宗が臣民祖先の協力輔翼により肇造した帝国の基礎を固め、民生の慶福を増進させるために天皇の決断をもって統治の大法を継承したものである事実。 この本義を一般国民の徹底し、国体尊崇する念を鞏固確実にすることができれば、断じて思想変調のために大義を誤ること(革命)はない。この本義は海外にも発揮宣揚して世界の道徳文化に貢献しなければならない。 国体尊重の念を鞏固にするには、敬神崇祖(神々を敬い祖先を崇めること)の美風を維持し、一層その普及を図る必要がある。報本反始(祖先の恩に報いるという礼記の言葉)は東洋道徳の優秀な点である。特に敬神崇祖の風習は我が万世不変の国体と密接な関係がある。天祖(天照大神)の遺訓を歴代天皇が奉じて国家に君臨し、皇位の隆盛は天壌無窮である。これは国体の尊厳である所以であり、皇室から臣民に至るまで常に敬神崇祖をもって報本反始の義を大事にするのは当然の事に属する。 敬神崇祖の風習は我が国不滅の習俗である家族制度と密接な関係がある。皇室が神祇を敬い祭祀を重んじ、われら臣民も父祖の霊位を祀る。これこそ我が家族制度における慎終追遠民徳帰厚(父母を丁重に弔い祖先を大切にすれば民の徳も厚くなるという論語の言葉)の所以である。 敬神崇祖の風習を振興する方策としては、神社の荘厳を維持すること、祭祀の本旨を周知すること、神官神職の地位を向上させることが最も必要である。 国体の本義を明徴するに最も必要な事項は皇典研究のために適切な施策を行うことにある。帝国大学その他適切な学校に皇学講明の方針を確立し、建国の由来を明らかにし、国体の根基精髄を理解させるべきである。 これと同じ月(1919年1月)、臨時教育会議委員の小松原英太郎が皇典講究所長の立場で宮内省に出向き天皇の御沙汰書を拝受する。御沙汰書には「今般その所(皇典講究所)国学院大学規模拡張の趣を聞きこしめされ、思し召しをもって第1期分大正8年度(1919年度)以降10年間年々1万円まで御補助として下賜そうろう事」とされる。1919年(大正8年)2月、加藤玄智が『我が国体と神道』を著し、主に宗教の立場から見た神道・国体と外国のそれとの違いを論じる。同書に次のようにいう(大意)。 余(加藤玄智)の専攻する宗教史・宗教学の方面より、我が国体の成立について新研究を試み、その淵源に溯り、そ大本を闡明しようと思う。 日本において天皇は現人神であり、シナ人のいわゆる天または上帝、ユダヤ人のいわゆるヤーヴェの位置を占める。 万世一系の天皇を奉戴する特種の国体にあっては、天皇の即位式が西洋諸国の君主の戴冠式と全く趣が異なる。それは、神を代理する僧侶から王冠を戴くのではなく、天皇がみずから神霊を祭祀して即位を告祭し、その後に臣民に広く告示する、これが大嘗祭である。大嘗祭と戴冠式との差異を考えると、我が国体の性質が西洋諸国のそれと比べて隔絶していることが分かる。 1920年(大正9年)東京帝国大学文学部に神道講座が新設され、加藤玄智がその助教授に就く。 この間の1919年5月に国体論の論説集『国体論纂』が出る。同年8月に物集高見が『国体新論』を著す。
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