臨時派遣第1戦車隊、派遣されてから1年の悲哀
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1931年(昭和6年)満州事変の勃発に伴い、同年12月17日には第1戦車隊と千葉の歩兵学校教導戦車隊からルノー FT-17軽戦車やルノー NC27軽戦車をかき集め、臨時派遣第1戦車隊が編成された。そして、同隊の戦車隊長には百武が選ばれた。 装備車両は当初、前述のように外国からの輸入車が中心であったが、逐次、新鋭の八九式中戦車(厳密には初期生産型の「八九式軽戦車」)に置き換えられた。 〈臨時派遣第1戦車隊の編制〉 第1小隊 指揮官永山中尉 八九式軽戦車3輌 第2小隊 指揮官堀場中尉 〃 第3小隊 指揮官米田中尉 〃 第4小隊 指揮官神田少尉 九二式重装甲車2輌 本部 八九式軽戦車1輌 段列 〃 その他、本部などにサイドカー3輌・乗用車1輌・装甲自動車1輌・トラック7輌・整備機材運搬トラック1輌 講義で習った戦術を広い大陸の戦場で実践してみせる、と意気込んで出発したものの、前述の通り当時最新鋭兵器である戦車に対し、上層部は確固たる運用法を見出せていなかった。結局派遣されてからの1年間、戦車隊は「こま切れ」的な運用をされ、ひどい時には「戦車隊(1輌)は、歩兵の戦闘支援」という命令が出るほどであり、百武ら若い戦車将校が胸を高鳴らせた第一次世界大戦の数々の戦車戦とはまったく異なる現実があった。
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