臨時政府首相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/23 08:31 UTC 版)
「ダールノキ・ミクローシュ・ベーラ」の記事における「臨時政府首相」の解説
1944年10月15日、パンツァーファウスト作戦によってホルティ・ミクローシュが失脚すると、ダールノキは第2軍司令官ベレス・ラヨシュ(ハンガリー語版)と共に戦闘を停止しようと試みたが失敗している。サーラシ・フェレンツ率いる矢十字党の国民統一政府が樹立されるとソ連側に寝返ろうとするが、第1軍を直接支配していたドイツ国防軍のゴットハルト・ハインリツィはこれを察し、ダールノキに出頭を命じた。すぐさまダールノキは副官と二人の兵士を連れて脱走し、ソ連軍に接触を求めた。ソ連軍は彼を司令部のあるポーランド南部のレスコにかくまった。 翌日17日朝、レスコを発ったダールノキは、ラジオにて第1軍の将兵に対し、ソ連への投降と反枢軸の隊列に加わるよう呼びかけた。多くの将兵が彼に従おうとしたが、ドイツ軍はダールノキ側につこうとした一人の連隊長を処刑した。これにより、ハンガリー将兵が転向する可能性は薄くなってしまった。数日後、ソ連軍の諜報員はダールノキに反政府組織の設立を持ちかけた。12月21日にデブレツェンで暫定国民議会(ハンガリー語版)が開催され、ハンガリー共産党、独立小農業者党、国家農民党、社会民主党、民主党から成る230議席の議会が成立した。翌22日にハンガリー臨時国民政府を樹立し、ダールノキが首相に選出され、臨時国民政府はソビエト連邦に承認された。ダールノキは矢十字党政権及びドイツ軍への協力者の逮捕・ソ連への引き渡し・財産没収を行い、1945年1月25日に人民裁判所を設置し、数十万人のハンガリー人が迫害を受けた。また、同年夏にはマリア・テレジア軍事勲章を廃止した。しかし、臨時国民政府はソ連の傀儡政権に過ぎなかったため、ハンガリー全土がソ連軍に占領され略奪行為や暴力行為が行われたことに対しては抗議出来ずにいた。11月4日に退陣し、ティルディ・ゾルターンと交代した。
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