二度目の革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 15:17 UTC 版)
「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)」の記事における「二度目の革命」の解説
ミハイルはガッチナに戻るが、以降は行動の自由を制限され、4月5日に陸軍から除隊させられた。7月21日、リヴォフに代わり、ケレンスキーが臨時政府首相に就任した。8月、ケレンスキーはニコライ2世一家を「ペトログラードでは人々の注目を集め過ぎる。人気のない場所に隔離するべき」としてトボリスクに追放した。ニコライ2世一家がトボリスクに出発する前日、ミハイルは兄との面会を求め、ケレンスキーは自身が同席することを条件に面会を許可した。ケレンスキーは面会の様子について、「二人は非常によそよそしい態度で会話を交わし、別れの間際に互いの軍服のボタンを相手に渡した」と記している。ミハイルがニコライ2世一家と会うのは、これが最後となった。 8月21日には、ナターリアと暮らしていたニコラエフ通りの別荘が警備隊に包囲された。ミハイルは、1912年12月以来秘書を務めているニコラス・ジョンソンと共に軟禁下に置かれ、一週間後にペトログラードのアパートに移された。しかし、ミハイルの胃の病状が悪化したため、イギリス大使ジョージ・ブキャナン(英語版)が臨時政府外務大臣ミハイル・テレシチェンコに掛け合い、ミハイルは9月にガッチナに戻された。テレシチェンコはブキャナンに対し、「イギリスが希望するならニコライ2世一家やミハイルの亡命を認める」と提案した。しかし、イギリスはロマノフ家を受け入れた際に反王政運動が発生することを危惧して、提案を拒否した。 9月1日、ケレンスキーは国号を「ロシア共和国」に改めた。ミハイルはこの日の日記に「今日起きると、ロシアの共和制が宣言されたことを聞かされた。正義や秩序が保たれるならば、政府がどのような形であっても問題はないだろう」と記している。二週間後にミハイルの軟禁が解除されるが、翌10月に十月革命が発生し、ケレンスキーに代わりボリシェヴィキが政権を掌握した。ミハイルは元同僚でペトログラード警備隊司令官だったピョートル・ポロトソフと連絡を取り、家族を連れてフィンランドに脱出することを計画した。ミハイルは脱出の準備を進めるが、ボリシェヴィキの同調者に計画が露見して再び軟禁状態に置かれ、彼の自動車も没収された。 11月に軟禁が解かれ、1918年1月に制憲議会が発足した。ボリシェヴィキは議会の少数派だったが要職を独占して主導権を握り、3月3日に中央同盟国との間にブレスト=リトフスク条約を締結した。4日後の3月7日、ミハイルとジョンソンはペトログラード・チェーカー長官モイセイ・ウリトスキー(英語版)の命令で逮捕され、ペトログラード・チェーカー本部のスモーリヌイ学院(英語版)に投獄される。
※この「二度目の革命」の解説は、「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)」の解説の一部です。
「二度目の革命」を含む「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)」の記事については、「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)」の概要を参照ください。
- 二度目の革命のページへのリンク