二度目の遠征航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 14:50 UTC 版)
「リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の記事における「二度目の遠征航海」の解説
8月27日からは、前年に行われたのと同じような、バルト連合艦隊 による海外遠征が実施されることになった。連合艦隊は、ポートランド=ブレスト=スタヴァンゲル間を航海した。規模は大きかったが、前年と比べれば艦隊構成ははるかに小編成であった。リューリクは連合艦隊の旗艦を務めたが、それ以外に演習に参加したのは戦列艦戦隊の4 隻と巡洋艦グロモボーイ、アドミラール・マカーロフ、パルラーダ、バヤーン、輸送船リガ、艦隊水雷艇半隊だけであった。 9月1日朝にドーバー海峡を通過してイギリス海峡に入ったロシア艦隊は、時化の中をポートランドまで航行した。港では沿岸砲台と礼砲を交わし、ドレッドノートを旗艦とするイギリスの第4戦艦戦隊の滞在する停泊地へと入った。9月2日朝からは、相互訪問が実施された。9月5日には下級兵のための盛大な昼食会が催され、700 名ほどが招待された。その後も、連日のように祝賀行事が催された。今回のロシア艦隊の訪英は、英露の対独協調をアピールするまたとない機会となった。出港時までイ岸から戻らぬ水兵が何名かいたが、イギリスの警察は彼らを探し出してロシア艦隊に引き渡した。9月7日午後3時、ロシア艦隊は霧に咽ぶイギリス海岸を後にした。 9月8日には、ブレストに到着した。ここでもまた数々の祝典が催されたが、9月11日にはリューリク上にて500 名を招待する祝賀会が催された。町では、羽目を外し過ぎたリューリクの水兵が2 名、酔っ払って怪我をして入院した。9月12日午前10時30分、艦隊は碇を上げてブレストを後にした。 9月14日には、ノルウェー・クリスチャンサンへ向かう戦列艦隊と2 隻の艦隊水雷艇と別れて、リューリクは残りの艦隊とともにスタヴァンゲルへ向かった。しかし、天候が悪化してきたためスタヴァンゲルへの入港には多くの時間と苦労が必要とされた。9月14日、冷たく強い風の中と荒い波の上を半日をかけて進んだロシア艦隊は、濃霧の中にあって港の燈台を見つけられなかった。港の入り口を見つけるため艦隊水雷艇隊が派遣された。翌15日になってようやく、艦隊は停泊地へ投錨することができた。 スタヴァンゲルでの滞在は3 日になった。その期間中、それまで同様に水兵らの上陸が許可されたが、ここでは一度ならずロシアの政治亡命者が水兵らと接触しようとしているのが確認された。一方、リューリクの士官たちはエッセン提督とともに1 隻の艦隊水雷艇を用いてリーセフィヨルドへの一風変わったツアーを行おうとしていた。幅5 鏈ないし7.5 鏈というこの狭い湾は、長さ20 海里にわたって続いており、ヨーロッパの旅行者たちには勇気と引き換えに絶景を楽しめる場所として知られていた。しかしながら、ロシアの水兵らにとっては美しい景色を眺めるだけでなく、多島海での航海術を習得し、その航海計器に習熟する絶好の機会にもなった。 9月18日正午には、巡洋艦戦隊はスタヴァンゲルを出港した。午後2時近くに戦列艦戦隊と合流し、バルト海峡へ進路を取った。ロシアへの帰路は平穏に過ぎ、9月21日、艦隊は無事にレーヴェリへ入港した。エッセン提督の言葉によれば、「全員の士気を高めるという点において大いに意義があった」航海であった。また、遠征を続けた経験は、「長期航海時における機関やボイラーの扱い方についての実習をする機会を人々へ与えた」。 遠征後の修繕と船員の休息は、長くは続かなかった。10月6日には戦列艦戦隊は、演習に入った。今回の目的は、バルト海海軍が敵艦隊のフィンランド湾侵攻を防ぐための機動演習であった。前年の演習時に比べ機動はことごとく向上したが、司令官と彼の参謀は艦隊に近代的な艦、とりわけ弩級戦列艦がかけていること、これなしに湾を防衛するのは、たとえ湾口に強力な機雷・火砲戦域を構築したとしても、かなり困難な課題となるに違いないことを指摘せざるを得なかった。 機動演習後、リューリクは戦列艦隊とともにクロンシュタットへ移動し、物資の補給を受けた。また、乗員には上陸が許され、休暇が出された。10月29日には、戦隊はゲリシンクフォールス停泊地に集結した。11月1日には、遠征を行った艦隊は武装予備役に入れられた。
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