二度目の訪日とは? わかりやすく解説

二度目の訪日

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:38 UTC 版)

ウィリアム・インブリー」の記事における「二度目の訪日」の解説

1885年明治18年7月インブリー一家1年9か月休暇終えて日本戻り、元の住まい築地居留地一六番の宣教師館に落ち着いた1887年明治20年1月19日東京府より、東京一致神学校東京一致英和学校英和予備校統合した一大カレッジとなる明治学院設置認可下りたインブリー学院設立の最も重要な会計委員務め専門学部邦語神学部教授就任して新約聖書注解教会政治担当した日本基督一致教会日本組合基督教会合同機運が高まると、インブリー合併草案作成委員長および「日本連合基督教会草案条目編成委員長として、2年間にわたる両派の合同実現運動主導したが、新島襄らが教会合同に強い反対示したことから組合教会内の反対勢力意見強まり1889年明治22年5月に両教会合同不成立結論達した日本基督一致教会合同可能性がなくなると、憲法草案作成委員長インブリー日本人教職者指導して従来ミッション主導による教会政治体制から日本人キリスト教会独自の教会憲法作成動き出した1890年明治23年12月3日4日開催され一致教会第6回大会では新憲法採択され同時に教会の名称を日本基督教会改めた。この時に採択されインブリー起草した信仰告白文は長く影響力保ち続け1953年昭和28年)の「日本基督教会信仰告白」や1954年昭和29年)の「日本基督教団信仰告白」も同じよう形式制定されている。 インブリー今後教勢拡張外国人宣教師の手委ねるではなく日本人キリスト者自らが行うべきだと考えた。彼は日本派遣される際に海外伝道局から与えられ宣教師としての全ての使命果たしたことを実感し成長する息子たち教育という理由重なり日本における奉仕終止符打ってアメリカ本国帰国することを決意した1893年明治26年4月29日一家4人は「オーシャニック英語版)号」に乗って横浜の港を後にした。 アメリカ戻った一家ニュージャージー州ローレンスビル(英語版)にあるローレンスビル・スクール教員住宅落ち着き帰国後のインブリーはそこから各地長老会議に呼ばれて講演説教行い母校プリンストン神学校連続講義講師依頼されたり、伝道局会議に出席したりと多忙な日々送った田村直臣1893年再渡米際し英文出版した日本の花嫁』はキリスト教から見た日本の結制度家庭における女性の地位低さについて書かれたものであるが、国粋主義風潮急激に高まる日本の各新聞・雑誌からその内容繰り返し非難されついには所属する日本基督教会弾劾裁判開いて1894年明治27年7月6日彼の牧師資格剥奪するという判決下したインブリーはこの裁判先立ちコメント裁判提出したい依頼状を送ってきた田村対し1894年5月14日付けで「この著書刺激的ではあるけれども、日本侮辱する意図のもとに、あるいは記述内容偽りであることを承知の上で書かれたとは思っていない」とアメリカから返事書いて田村著作理解示している。 息子マルコムチャールズ二人それぞれ17歳15歳成長し希望するプリンストン大学への進学目処がついてきたことから、インブリーは再び日本訪れ決心をした。

※この「二度目の訪日」の解説は、「ウィリアム・インブリー」の解説の一部です。
「二度目の訪日」を含む「ウィリアム・インブリー」の記事については、「ウィリアム・インブリー」の概要を参照ください。

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