二度目の訪日
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「ウィリアム・インブリー」の記事における「二度目の訪日」の解説
1885年(明治18年)7月にインブリー一家は1年9か月の休暇を終えて日本に戻り、元の住まいの築地居留地一六番の宣教師館に落ち着いた。 1887年(明治20年)1月19日に東京府より、東京一致神学校、東京一致英和学校、英和予備校を統合した一大カレッジとなる明治学院の設置の認可が下りた。インブリーは学院設立の最も重要な会計委員を務め、専門学部と邦語神学部の教授に就任して新約聖書注解と教会政治を担当した。 日本基督一致教会と日本組合基督教会合同の機運が高まると、インブリーは合併草案の作成委員長および「日本連合基督教会」草案細条目編成委員長として、2年間にわたる両派の合同実現の運動を主導したが、新島襄らが教会合同に強い反対を示したことから組合教会内の反対勢力の意見が強まり、1889年(明治22年)5月に両教会の合同は不成立の結論に達した。日本基督一致教会は合同の可能性がなくなると、憲法草案作成委員長インブリーが日本人教職者を指導して従来のミッション主導による教会政治体制から日本人のキリスト教会独自の教会憲法作成に動き出した。1890年(明治23年)12月3日と4日に開催された一致教会第6回大会では新憲法が採択され、同時に教会の名称を日本基督教会と改めた。この時に採択されたインブリーが起草した信仰告白文は長く影響力を保ち続け、1953年(昭和28年)の「日本基督教会信仰の告白」や1954年(昭和29年)の「日本基督教団信仰告白」も同じような形式で制定されている。 インブリーは今後の教勢拡張は外国人宣教師の手に委ねるのではなく、日本人キリスト者自らが行うべきだと考えた。彼は日本に派遣される際に海外伝道局から与えられた宣教師としての全ての使命を果たしたことを実感し、成長する息子たちの教育という理由も重なり、日本における奉仕に終止符を打ってアメリカ本国に帰国することを決意した。1893年(明治26年)4月29日に一家4人は「オーシャニック(英語版)号」に乗って横浜の港を後にした。 アメリカに戻った一家はニュージャージー州ローレンスビル(英語版)にあるローレンスビル・スクールの教員住宅に落ち着き、帰国後のインブリーはそこから各地の長老会議に呼ばれて講演や説教を行い、母校のプリンストン神学校で連続講義の講師を依頼されたり、伝道局会議に出席したりと多忙な日々を送った。 田村直臣が1893年の再渡米に際し、英文で出版した『日本の花嫁』はキリスト教から見た日本の結婚制度や家庭における女性の地位の低さについて書かれたものであるが、国粋主義の風潮が急激に高まる日本の各新聞・雑誌からその内容が繰り返し非難され、ついには所属する日本基督教会も弾劾裁判を開いて1894年(明治27年)7月6日に彼の牧師の資格を剥奪するという判決を下した。インブリーはこの裁判に先立ちコメントを裁判に提出したいと依頼状を送ってきた田村に対し、1894年5月14日付けで「この著書は刺激的ではあるけれども、日本を侮辱する意図のもとに、あるいは記述の内容が偽りであることを承知の上で書かれたとは思っていない」とアメリカから返事を書いて田村の著作に理解を示している。 息子のマルコムとチャールズの二人がそれぞれ17歳と15歳に成長し、希望するプリンストン大学への進学に目処がついてきたことから、インブリーは再び日本を訪れる決心をした。
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