日本人との協力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 11:00 UTC 版)
「デムチュクドンロブ」の記事における「日本人との協力」の解説
満州事変勃発後、徳王は日本軍と連絡を取り合うようになり、同じ内蒙古自治運動を指導していたユンデン・ワンチュク(雲王)などともに1933年に内蒙古王公会議を結成。国民政府に対して高度な自治を要求した。これを認める形で翌1934年に蒙古地方自治政務委員会が成立、徳王は秘書長となった。 その後1936年2月10日に関東軍の支持の下蒙古軍政府が成立すると総司令・総裁に就任。1936年11月に徳王麾下の内蒙軍や李守信と王英などの部隊が関東軍の後援をたのんで綏遠省に進出し、同省主席の傅作義軍に撃退された(綏遠事件)。盧溝橋事件の後に日本は内蒙古方面へ本格的に出兵し、1937年10月17日に包頭を占領。雲王・徳王・李守信はこれに応じる形で10月28日に厚和(綏遠を改称)にて蒙古聯盟自治政府を成立させた。当初、雲王が主席となり、翌年3月に雲王が病没すると、徳王が後任の主席となった。1938年10月、徳王は初めて訪日した。準国賓待遇を受け天皇に拝謁し、勲一等旭日章を受勲した。蒙古聯盟自治政府は、1939年9月1日に察南自治政府・晋北自治政府と合併し蒙古聯合自治政府となった。首都は張家口に置かれ、名目としては汪兆銘政権下の自治政府という位置づけだった。1941年2月徳王は二度目の訪日を行った。自治国として承認させることであったが、承認しなかった。1942年東條首相は大東亜共栄圏の首脳を招いたが、徳王は出席しなかった。
※この「日本人との協力」の解説は、「デムチュクドンロブ」の解説の一部です。
「日本人との協力」を含む「デムチュクドンロブ」の記事については、「デムチュクドンロブ」の概要を参照ください。
- 日本人との協力のページへのリンク