日本人とゾウとは? わかりやすく解説

日本人とゾウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:19 UTC 版)

ゾウ」の記事における「日本人とゾウ」の解説

まだユーラシア大陸陸続きだった頃の日本列島にはナウマンゾウ生息しており、旧石器時代には狩猟対象とされていた。日本においてナウマンゾウは約2万年前絶滅したとされるが、その骨は後の時代にも珍重され正倉院にもナウマンゾウ臼歯竜骨として保管されていた。 唐時代の官の家畜に関する規定である厩牧令ではラクダゾウ記述があったが、日本厩牧令では国内事情合わせるため記述削除された。存在自体仏教影響知られており、『今昔物語集』には、イノシシゾウ乗った普賢菩薩化けて僧を誑かす逸話がある。12世紀から13世紀成立したと言われる鳥獣人物戯画』の乙巻には、長い鼻や太い足、牙など象の特徴をよく捉えた絵が描かれている。 生きているゾウ日本渡来したことが確認できる最も古い文献記録は、応永15年6月22日1408年7月15日)に若狭国小浜入港した南蛮東南アジア)の船にゾウ積まれていたというものである。この船は亜烈進卿という人物パレンバン華僑頭目施進卿とされる)が派遣したもので、足利義持への献上品として孔雀オウムなどとともにゾウ積まれていた。このゾウ上京果たしたようだが、当時の人々反応伝え史料残っていない。その後応永18年1411年)に、このゾウ足利義持から朝鮮太宗贈られた。 天正3年1575年)には明の船が象と虎を連れて豊後国臼杵到来し大友宗麟献上されたほか、慶長2年1597年)にはルソン総督豊臣秀吉への献上品として、また慶長7年1602年)には交趾から徳川家康への献上品として虎・孔雀とともに贈られた。神戸市立博物館所蔵桃山時代南蛮屏風には日本に連れて来られた象が描かれている。 享保13年1728年6月には、オスメス2頭の象が江戸幕府8代将軍徳川吉宗献上するために広南ベトナム)から連れてこられた。メス上陸地の長崎にて3か月後に死亡したが、暴れることを想定しそれに耐えうる頑丈な国産船が当時無かったことから、オス長崎から陸路歩行江戸向かい途中京都では中御門天皇の上覧があり、庶民からもかなりの人気があった。上覧には位階必要なため、オスゾウには「従四位広南白象」と位と号が与えられている。江戸で徳川吉宗江戸城大広間から象を見たという。その後ゾウ浜御殿にて飼育されていたが、飼料代がかかり過ぎるため寛保元年1741年4月中野村現東京都中野区)の源助という農民払い下げられ翌年12月病死した。現在も馴象之枯骨じゅんぞうのここつ)として、中野宝仙寺に牙の一部が遺されている。 その後文化10年6月28日1813年7月25日)にイギリスシャルロッテ号とマリア号が長崎来航した際、将軍への特別の贈り物としてメスの象1頭が連れてこられている。長崎奉行遠山景晋がその象の検分に当たり、しばらく長崎滞留していたが、同年9月1日幕府から受け取り拒否回答伝えられたため、その象は再び船に乗って日本出国していった。なお、このイギリス船の来航本当目的は、トーマス・ラッフルズの命により、出島オランダ商館イギリス引き渡すようにオランダ商館ヘンドリック・ドゥーフ要求するためで、象はその挨拶がわりだったのではないかとされている。 歌舞伎十八番のひとつにゾウ題材とした「象引」がある。

※この「日本人とゾウ」の解説は、「ゾウ」の解説の一部です。
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