二度目の閉山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/21 13:42 UTC 版)
1909年(明治42年)にいたり、産出量が急激に衰えた。同年10月に当時の経営者である三井鉱業部が、産出量の乏しいこと・輸送の不便なことを理由に採鉱を中止を発表した。そのため先の鉱毒問題も自然消滅してしまった。昭和時代にいたり、三井鉱山が再掘を試みたが、1940年(昭和15年)1-2月の大雪崩により計21名が犠牲となる事故があり、そのまま閉山となった。この辺りは豪雪地帯で、明治以降に限っても度々雪崩が生じ、犠牲者を出していた。 以後、本鉱山は長らく放置状態となり、当時のズリ山の所在地も判りづらくなってきている。現在当地は、金沢市の上水道の水源地帯であり、かつて発生したとされる鉱毒の懸念をはねつけてまでの採掘再開はありえないと考えられている。
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