二度目の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/17 17:20 UTC 版)
代案として再びIV号戦車の車体を利用した突撃砲の生産が企画された。1943年12月6-7日の会議で、ヒトラーはこれに賛成した。最初の設計で目指された前面傾斜装甲は諦めることにして、IV号戦車の車台にIII号突撃砲G型の上部構造を取り付けたIV号突撃砲が開発された。ただしIV号戦車の車体の長さはIII号戦車シャーシのそれよりも長いため、操縦手席は前方に突出し、専用の乗降ハッチとペリスコープが設置された。本車はIII号突撃砲より大きく見えるが、重さは23,000kgでIII号突撃砲の23,900kgより1トン近く軽かった。 IV号戦車の車台もIII号突撃砲の上部構造も既製部品の流用であり、IV号駆逐戦車のように生産ラインの治具を変更し生産を遅らせることもなかった。そして当時、突撃砲の生産に係わらずIV号戦車を生産していたクルップ社が、これを生産することとなった。12月16-17日には早くもIV号突撃砲の生産型が完成し、ヒトラーの謁見を受けた。そして2ヶ月の間、低下した突撃砲の生産数を回復するため、IV号突撃砲の生産に集中することが決定された。本車は1943年末から30輌がダイムラー・ベンツ社のマリーエンフェルデ工場で、続いてクルップ・グルゾンヴェルク社により1945年4月までに1,111輌が生産された。IV号突撃砲の登場により、それまで単に突撃砲とよばれていた物はIII号突撃砲と呼ばれるようになった。本車の乗員は4名で、III号突撃砲やIV号戦車の車体の改良に合わせて細部の異なるバリエーションがある。 同時期のIV号駆逐戦車(Pak39/L48搭載型)に比べ、本車は火力は同等ながら防御力では劣っていた。しかし主砲の搭載位置と前面装甲の面積の関係で、ノーズヘビー傾向の強かったIV号駆逐戦車より重量バランスが良く、機動性と操縦性では勝っていた。III号突撃砲の生産数には遙かに及ばなかったが、ドイツにとって戦闘車輌が最も必要だった1944年から、III号突撃砲と共に終戦まで戦った。
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