臨時政府、第四共和政
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「フランスの経済」の記事における「臨時政府、第四共和政」の解説
「栄光の三十年間」も参照 第二次世界大戦によりフランスはナチス・ドイツとヴィシー政府(一部・イタリア王国)に分断・支配され、戦場と化し、インフラの整備も遅れ、また破壊されたことより、フランス経済は疲弊した(鉱工業生産指数は1938年=100とした場合、1944年で38)。加えて、マルサス主義に束縛され、19世紀末から20世紀初頭の第二次産業革命の時期に英米独と比較して人口が増加しなかったこと が消費市場の狭隘さを生みだし、「人口はほぼ5000万人に停滞、農村的性格を有し」 ていた。 ナチス・ドイツ降伏後、フランス共和国臨時政府が政権を獲得したが、政権の中枢はフランス共産党、フランス社会党(SFIO)、人民共同運動(MRP)の三党連立政権であった。臨時政府は全国抵抗評議会が作成したCNR綱領に沿った構造改革を行うことで、「『マルサス主義』の克服のために計画化、国有化、民主化を推進」 することだった。 ナチス・ドイツに協力したことを理由に1944年12月に、パ・ド・カレー北部炭坑(後、フランス石炭公社(fr)に改組)、次いでルノー(1945年1月)が国有化された。その後、フランス銀行、四大商業銀行(クレディ・リヨネ(en)、ソシエテ・ジェネラル、全国割引銀行、全国商工業銀行)、34の保険会社などが国有化された。また、電力・ガス供給のために、フランス電力公社とフランスガス公社が設立され、運輸部門では鉄道では、すでに大戦中に国有化されており、エール・フランスが国有化された。 企業の国有化の一方、経済社会の民主主義化がすすめられ、労働組合結成の自由、社会保障の整備がすすめられた。 1946年10月に臨時政府から第四共和政に政権が移行したが、引き続き、フランス共産党、SFIO、MRPの三党連立政権(ただし、1947年5月にフランス共産党は政権から離脱)が戦後復興を行うことになるが、物不足の中で輸入超過が進み、外貨不足は深刻となり、物価上昇が進んだ。第二次世界大戦中の共産党の躍進もあり、フランスの共産化を防ぐべく、マーシャル米国務長官はマーシャル・プランを実施、フランスには全体の24%が投下され、国土の復興が図られた。 マーシャル・プランで投下した資本を元に、ジャン・モネが計画・立案したモネ・プラン(第1次計画、1948年~1953年)では、(1)電力、(2)石炭、(3)鉄鋼、(4)セメント、(5)鉄道・運輸、(6)農産物の6部門に重点的に資本を投下した。その結果、1948年には工業・サービス部門が、1950年には農業が1938年を超える水準にまで回復した。しかし、朝鮮戦争を原因とした輸入財の物価上昇が始まり、1950年の7.9%から1952年には2.3%、1952年には3.0%へと低下、貿易赤字も1952年には6,180億ドルに達し、景気は失速していった。 モネ・プランの後で始まった、Étienne Hirschが作成したイルシュ・プラン(1954年~1957年、第2次計画)により、オイルショックまで続くフランスの高度経済成長(Trente Glorieuses)が始まった。イルシュ・プランでは6部門から17部門に資本を投下する分野が拡大され、経済成長を誘導する手法を採用、ボトルネックの解消から経済全体の均衡のとれた発展が目標となり、生産の量より質を重視された。イルシュ・プランにより、1950年代の年間の経済成長率は平均4.5%となり、軽工業から重化学工業へと産業の構造が転換した。また、住宅ラッシュや消費財の普及、1944年から続いた人口増加が経済拡大を後押しした。一方で、物価上昇が続き、フランス国内では生産できない資本財は海外からの輸入に頼るなど国際収支は悪化し、成長を阻害する原因となった。 普仏戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦の反省から、ジャン・モネの提唱を受けて、1950年5月9日、ロベール・シューマン外相がシューマン宣言を発表、翌1951年にフランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス三国の計6国で欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が、次いで1957年に欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(EURATOM)が発足した。
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