第2次計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 05:35 UTC 版)
推古10年(602年)2月、聖徳太子の弟来目皇子が征討将軍として軍2万5千を授けられる。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営した。6月3日、百済より大伴連囓と坂本臣糠手が帰国する。しかし、来目皇子が病を得て新羅への進軍を延期とした。なお、10月に百済の僧侶観勒が倭国に訪れる。 来目皇子は、征討を果たせぬまま、翌推古11年(603年)2月4日、筑紫にて薨去。来目皇子は、周防の娑婆(遺称地は山口県防府市桑山)に殯し、土師猪手がこれを管掌した。
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