第2次藤田監督時代
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「読売ジャイアンツ」の記事における「第2次藤田監督時代」の解説
1989年 藤田元司が監督に復帰。原が外野へコンバート、内野は駒田、岡崎、川相が定着。中日から移籍の中尾のリードも冴えて、斎藤雅樹(20勝・防御率1.62)、桑田真澄(17勝・防御率2.60)、槙原寛己(12勝・防御率1.79)と三本柱が機能し、チームは2位の広島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を達成する。井上真二、緒方耕一の若手も台頭。1989年の日本シリーズでは近鉄バファローズに3連敗を喫した後、4連勝し逆転で17回目の日本一に輝く。中畑は引退し、鹿取義隆は西武へ移籍となる。ドラフトでは藤田監督の大学後輩である大森剛を1位指名、甲子園で活躍した元木大介は巨人を熱望するもダイエーに指名されるが入団拒否。 この年は平成最初のペナントレースだったので、巨人は「平成最初のセ・リーグ優勝・日本一球団」になった。 1990年 2年連続20勝した斎藤を筆頭に桑田・宮本和知(各14勝)、木田優夫(12勝)、香田勲男(11勝)と5人が二桁勝利を挙げ槙原も9勝とこの6人だけで合計80勝を挙げチーム勝利が88勝なので約9割を占め、完投数が70(130試合中)という先発投手中心のチームでペナントをリードし、9月8日の対ヤクルト戦(東京ドーム)で、吉村のプロ野球史上初となるサヨナラ優勝決定ホームランにより史上最速で2年連続のリーグ優勝を果たす。2位・広島とのゲーム差を22ゲーム付けた。しかし、西武と対戦した日本シリーズでは、4連敗のストレート負けで敗退している。ドラフトでは浪人していた元木を1位指名。 1991年 投手陣では桑田が16勝を挙げる大活躍をしたものの、斎藤、槙原、宮本、木田、香田の先発陣は軒並み不調で香田以外貯金を作れず(香田も貯金は1つだけ)前年80勝を挙げた6人での合計は56勝に終わる。リリーフ陣はさらに深刻で、最多セーブは水野雄仁の3つが最多。この年優勝した広島、2位中日、3位ヤクルトと盤石のリリーフエースがいるチームとの明暗が別れるシーズンとなった(二桁セーブを記録している大洋にも勝ち越しできずストッパーが固定されてない阪神にしかシーズン勝ち越しできなかった)。打撃陣も川相昌弘が犠打で当時の年間犠打数を更新する66個を記録、クリーンナップも原が犠牲フライ数で王貞治の記録を更新するなど数字は出ているが勝利に結びつかず他の打者の不振も響き、特に守備面での失態が多くチーム盗塁阻止率はこの年.156で2年連続12球団ワーストを記録し失策数も前年48個だったのが76個だった。1979年以来12年ぶりのBクラスとなる4位に転落した。シーズン終了後、近藤昭仁ヘッドコーチ・松原誠打撃コーチが、不振の責任を取る形で退団した。 1992年 序盤の不調が響き、5月には9日の対大洋戦に負け8年ぶりに最下位に転落する。特に前年の勝ち頭桑田が出れば打たれるの繰り返しで結局シーズンを通して尽く連勝ストッパーになってしまった。しかしチームはシーズン途中に西武から移籍の大久保博元と新外国人にロイド・モスビーの加入、生え抜きの石毛博史がリリーフエースとして頭角を現したこと等により大快進撃で、前半戦が終了する頃には首位に立った。しかし8月に入ると失速し、終盤のヤクルト・阪神・広島との大混戦の優勝争いの結果、最終的には阪神と同率2位になるも2年連続のV逸が決定。この年限りで藤田は監督を勇退。後任には長嶋茂雄が13年ぶりに復帰、ドラフト会議で注目されていた松井秀喜の交渉権を阪神・中日・ダイエーとの競合の末獲得する。 この時期投手陣の中心となったのは斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己。斎藤は安定感、桑田は投球術、槙原は球威と、それぞれ違った持ち味を発揮して白星を積み上げていった。藤田の監督在任時の成績は、斎藤68勝(20-20-11-17)、桑田57勝(17-14-16-10)、槙原42勝(12-9-9-12)の成績を残している。
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