第2次英国攻囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 02:46 UTC 版)
詳細は「セントオーガスティン攻囲 (1740年)(英語版)」を参照 スペインとイギリスはヨーロッパで覇権を争っていた。両国が新世界で帝国を創設して以来、新世界まで覇権争いが広がった。1733年にロバート・ジェンキンス (船長)(英語版)に指揮された英国艦レベッカ(Rebecca)はカリブ海でスペインの海岸警備隊に拿捕された。 イギリス人がスペイン植民地との間で非合法な交易(スペイン、イギリス両国とも禁止していた)を行なっている嫌疑により、スペイン人はレベッカを捜索した。スペイン人とイギリス人船員の間で闘いが起きた。小競り合いの最中、ジェンキンスはスペイン士官に耳を切り落とされた。スペイン士官は耳を拾い上げて、こう言った。「これをお前たちの王に届けてこう告げよ『もし王がこの場にいるなら俺は同じやり方で王に仕えてやるぞ!』」と。 ジェンキンスが事件を報告すると、イギリス当局はそれをスペインに対する宣戦布告(1739年)の口実に使った。この戦争はジェンキンスの耳の戦争と呼ばれた。 イギリスの提督エドワード・ヴァーノン(英語版)がポルトベロの戦い(ポルトベロは中米パナマの町)で大勝した後、ジェイムズ・オグルソープ将軍(ジョージア植民地の創設者)は直ちに北アメリカでヴァーノンを真似ようとした。1740年6月、オグルソープと7隻の船からなる英国艦隊はセントオーガスティン沖に現れた(セントオーガスティン攻囲 (1740年)(英語版))。1702年の攻囲と同様、300人の兵士と1,300人の住民がサンマルコス砦内に避難した。27日間にわたりイギリスはサンマルコス砦とセントオーガスティンを砲撃した。大砲が要塞の壁に対して効果がないことが明らかになると、オグルソープはマタンザス川(英語版)の入り江と町へ通じるすべての道路を封鎖してセントオーガスティンの人たちを兵糧攻めにすることにした。物資は町に届かなくなった。しかしイギリス軍の士気も備蓄も低下して、オグルソープは撤退するしかなくなった。 戦後、将来の封鎖や攻囲から市を守るため、スペイン人は入り江をガードするマタンザス要塞(現、マタンザス要塞ナショナル・モニュメント(英語版))を建設した。これはセントオーガスティンの主要な防衛システムを避ける裏口として使われた。
※この「第2次英国攻囲」の解説は、「サンマルコス砦」の解説の一部です。
「第2次英国攻囲」を含む「サンマルコス砦」の記事については、「サンマルコス砦」の概要を参照ください。
- 第2次英国攻囲のページへのリンク