投球術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:41 UTC 版)
足の裏を全て地面に付けず、爪先で立つように投げるフォームは、漁師であった父の仕事の手伝いで、小船で櫓を漕ぎ続けていたことによって得たものだった。1964年に肩を痛めて以降は、腕を強く引くことができなくなり、かかとを上げるだけのゆとりが持てなくなってこのフォームは出来なくなった。また、1961年にプロ入りして中日ドラゴンズのエースとして活躍した権藤博は、「稲尾さんのコピーを目指した」という程、全盛期の稲尾のフォームを徹底して観察し、手本にしたという。 得意の球種はスライダーで、青田昇は「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは、藤本英雄、稲尾和久、伊藤智仁の三人だけ」と評価している。一方で稲尾は秘密兵器として逆方向のシュートも持っており、打者の意識が完全にスライダーに向いた時にシュートを投げて打ち取るというパターンを構築していた。そのことを悟られないよう、稲尾はヒーローインタビュー等でも盛んにスライダーを強調して意識付けをしていたが、野村克也にだけは本当の決め球がシュートであることを見破られていたという。1958年のオールスターで、他の選手と雑談していた杉浦忠が「プロ野球というのはやっぱりすごいのう。ピッチャーの球の握りを読んで予測するらしい」と話しているのが聞こえたことで、野村がバッターボックスからどのようにしてスライダーとシュートを見分けていたかに気づくと、後半戦からはシュートの握り方を変えて癖を消した。またこの経験から直球も変化球も同じフォームで投げられるように、またリリースポイントの直前で握りを変えられるように工夫した。 スライダーとシュートと以外に、フォークボールも習得していた。これは一歳年上であり、大毎オリオンズの主砲だった榎本喜八を打ち取るためだけに習得したもので、榎本との対戦以外では1球も投げなかった。稲尾は榎本について「対戦した中で最高にして最強のバッター」「ひとりのバッターのために新しいボールを覚えたというのは、後にも先にも榎本さんだけです」と評しており、当時20歳で打率3割を打ったこともなかった榎本に、打者としての只ならぬ雰囲気を感じ、2年目(1957年)からフォークボールを投げ始めたという。その後、実際に榎本はリーグを代表する打者になった。稲尾は「シュートもスライダーもきれいに打たれてしまうので、榎本さんにだけはフォークを投げた。たったひとりのバッターを抑えるために新しいボールを覚えなければならなかったんです。榎本さんとの勝負だけは野球をやっている感じがしませんでした。スポーツではなく真剣勝負、そう、果たし合いだったような気がします」と語っている。また、フォークボールについては「榎本さん限定で1試合5球だけ」としていた。 野村克也は稲尾の変化球による絶妙な左右への揺さぶりと、その完璧な制球力を絶賛しており、「技巧派」の投手の代表格として稲尾の名前をあげている。直球については「稲尾のストレートは当てられないほどではないが、凡打、三振させられてしまうのは、その球質に原因がある。球速、球威が最後まで衰えない、いわゆる『球がホップする』球質なのである。稲尾の球速は145キロ程度、しかし手元でよく伸びてくる。体感速度が速い。『来た!』と思ってバットを振ったときには、すでに手元までボールが来ている。だから差し込まれてしまう」と語っている。また、「『内角・外角』でワンペア、『高め・低め』でツーペア。あとは『速い・遅い』、『ストライク・ボール』。この4ペアの使い方。稲尾は唯一、この4ペアを使いこなしたピッチャー」、「球がびっくりするほど速いとか、そういうことじゃない。彼から学ぶことは多かったけど、『ピッチングはスピードよりコントロールだ』って概念は、その筆頭だな」とも述べている。 特に外角のコントロールに優れ、主審が浜崎忠治の時にはボール2、3個外れてもストライクとなった。これを他チームは稲尾-浜崎ラインと呼んで恐れた。野村克也は稲尾について、「大勢ピッチャーがいるなかでも、『アンパイアを自分のペースに巻き込んでいく』というのは、稲尾だけ。外角低めにズバーンと投げて、審判が『ストライク』と言うでしょ。そうなると、『次はこれでどうだ』って、ひとつずつ外にはずしていくの。それでも球威があってキレもいいから、審判もつられて手が上がっちゃうんだよね」「浜崎さんっていう、ジャッジが甘い審判がいたんだけど、稲尾が先発で球審に浜崎がいたら、試合が始まる前から勝てる気がしない。『もう、今日は負け』ってなもんで。審判に『外れてますよ』って言っても『入ってます』と言われちゃう」「審判を自分のペースに巻き込んで、もう『ボールと会話してる』って感じだったね」と振り返っている。 現在では一般的な投球術となっている、相手打者を打ち取る球から遡って配球を組み立てる、いわゆる「逆算のピッチング」を編み出したのも稲尾とされている。これを会得したのは、1958年の日本シリーズ第6戦における長嶋茂雄との対決だったという。また、同シリーズで「長嶋は何も考えず、感性で体が投球に反応している」と気づいた稲尾は、自分も長嶋の体の微妙な動きから瞬時に狙い球を読みとり、球種を変更するという作戦で押さえ込むことに成功した。 マウンド上のマナーが優れていたことで知られる。イニングが終わって相手投手にマウンドを譲るときは、必ずロージンバッグを一定の場所に置き、自分の投球で掘れた部分を丁寧にならしていた。対戦した杉浦忠はこれに感銘し、真似するように努力したという。その杉浦は「しかしどうしても、私はピンチの後などにマウンドのことなど忘れてしまうことがあったのだが、稲尾は一回たりとも荒れた状態のマウンドを渡したことはなかった」と振り返っており、稲尾のマウンドマナーを絶賛している。 稲尾はピッチャーの目的として、最初は速い球を投げる、コントロールの良い球を投げると思っていたが、試合で戦ってるうちにバッターをアウトにすることが目的だと気づいたという。同様に、ランナーを出してもアウトをとり点を与えなければよく、それが防御率の良さにつながるから、ピッチャーの価値は防御率で決まると述べている。
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