アルノルト・ファン・エフモントとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アルノルト・ファン・エフモントの意味・解説 

アルノルト・ファン・エフモント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/19 05:02 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
アルノルト・ファン・エフモント
Arnold van Egmont
ゲルデルン公
在位 1423年 - 1465年1471年 - 1473年

出生 (1410-07-14) 1410年7月14日
エフモント=ビネン英語版
死去 (1473-02-23) 1473年2月23日(62歳没)
フラーフェ英語版
配偶者 カタリーナ・フォン・クレーフェ
子女 マリア
ウィレム
マルハレータ
アドルフ
カタリーナ
家名 エフモント家
父親 エフモント領主ヤン2世
母親 マリア・ファン・アルケル
テンプレートを表示

アルノルト・ファン・エフモントArnold van Egmont, 1410年7月14日 - 1473年2月23日)は、ドイツオランダ系のゲルデルン(ヘルレ)公(在位:1423年 - 1465年、1471年 - 1473年)。

生涯

エフモント領主ヤン2世とその妻のマリア・ファン・アルケル(Maria van Arkel, 1385年頃 - 1415年)の間の長男として生まれた[1]。母方の祖母ヨハンナがユーリヒ=ゲルデルン公ライナルトの妹だったため、1423年に大伯父ライナルトが死ぬと、13歳でゲルデルン公爵家の家督を継いだ。神聖ローマ皇帝ジギスムントはユーリヒを相続したベルク公アドルフ7世にゲルデルンをも受け継がせようとしたが、アルノルト側はゲルデルン公領の等族に特権の拡大を約束することで支持を獲得し、またブルゴーニュフィリップ3世(善良公)の支持も取り付けて、公領の支配権を守った。1430年にはフィリップ善良公の姪にあたるカタリーナ・フォン・クレーフェと結婚した。

しかしユトレヒト司教領の支配をめぐってフィリップ善良公と対立し、善良公はゲルデルンの有力諸都市と同盟を結んでアルノルトに脅しをかけた。1465年、善良公に操られた息子アドルフによって公爵位を奪われ、幽閉された。1471年、善良公の後継者ブルゴーニュ公シャルル(突進公)はアドルフと決裂し、今度はアドルフを幽閉した。代わりに解放されたアルノルトは、1472年に公領の法律および反ブルゴーニュ的な諸都市の意思に反して、公領を突進公に対して30万ライン・フローリンで抵当に入れた[2]。翌1473年のアルノルトの死とともに、ゲルデルンはブルゴーニュ公領の一部に加えられた。

子女

1430年1月26日にクレーフェにおいて、クレーフェ=マルク公アドルフ1世の娘カタリーナと結婚し、間に2男3女の計5人の子女をもうけた。

他に8人(4男4女)の庶子をもうけている。

脚注

  1. ^ Miroslav MAREK (2004年2月10日). “Arnold von Egmond, Duke of Geldern(Egmont2)”. genealogy.euweb.. 2012年10月6日閲覧。
  2. ^ 堀越孝一 『ブルゴーニュ家』 講談社現代新書、1996年、P247
先代:
ライナルト
ゲルデルン(ヘルレ)公
ズトフェン伯
1423年 - 1465年
次代:
アドルフ
先代:
アドルフ
ゲルデルン(ヘルレ)公
ズトフェン伯
1471年 - 1473年
次代:
シャルル(突進公)



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アルノルト・ファン・エフモント」の関連用語

アルノルト・ファン・エフモントのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アルノルト・ファン・エフモントのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアルノルト・ファン・エフモント (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS