中世社会のなかの説経節
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 10:08 UTC 版)
古説経は、神仏が神仏になる以前、人間であったときの苦難の生を語るという「本地物」の構造を備えており、いわば神仏の前生譚というスタイルを採っている。これは、逆言すれば、人間があらゆる艱難辛苦に打ち克って神仏に転生するという物語でもあった。そしてまた、この物語は、神仏が前生(前世)において人間として数多くの苦しみや困難を味わったからこそ、同じく悲惨で苦渋に満ちた生を送る一切衆生を救済する力があるという思想にもとづいていた。 説経節を聴きに集まる人びともまた、それが神仏として再生する物語であることを知っていた。したがって、聴衆は、本地物という形式を受け入れながら、個々の場面については、同じ人間として、いかなる情念のなかで人間の行動が語られるかに深い関心を寄せて聴き入ったものと考えられる。そして、こうした語りの全体によって、抑圧された生活を送っている人びとを「いたわしい」の言葉で慰め、来世での救済を信じて現世での苦しみを耐え忍ぶ力を与えたことであろう、と思われる。それにとどまらず、たとえば『山椒大夫』の厨子王は悲惨のどん底をかいくぐって現世の富貴繁盛を達成したとき、自身を迫害した山椒大夫に対し峻烈なほどの処刑を加える一方、自らが艱難辛苦にあったとき、ささやかながらであっても恩恵や庇護を与えてくれた者に対しては惜しみない報恩をおこなっており、これは他の演目にも共通する。ここに、中世の民衆がみずからの幸福を強く願望し、世の不条理に憤り、あるべき社会に対する熱い希求の念をいだいていたことを読み取ることができる。 注目されるのは、『しんとく丸』の蔭山長者の乙姫などにみられる恋物語は激しいまでの「純愛」を示していることである。これは、日本における「恋愛」が近代に入って西欧から輸入された概念であるという見解を裏切るものである。そしてまた、説経節の物語に登場する積極果敢な人物、なかでも乙姫や安寿姫、照手姫など、愛と献身に生きながら勇気に満ち、精神的にも自立した女性は、従来の日本文学にはみられない「新しい女性像」をつくりだしたと評価される。 その一方で、成り上がり譚や貴種流離譚を多く含む説経節は、中世史家の伊藤正敏によれば「境内都市に充満するなりあがり幻想の歌劇化」であり、いわゆる「判官贔屓」はこの幻想が実際には崩壊せざるをえないという現実に大衆的基盤を持っており、貴種流離譚は、その裏返しとしての貴族への憧憬、かなわぬ夢の反映であるともとらえられる。
※この「中世社会のなかの説経節」の解説は、「説経節」の解説の一部です。
「中世社会のなかの説経節」を含む「説経節」の記事については、「説経節」の概要を参照ください。
- 中世社会のなかの説経節のページへのリンク