中世後期の鎌倉街道とは? わかりやすく解説

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中世後期の鎌倉街道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 08:39 UTC 版)

甲斐路」の記事における「中世後期の鎌倉街道」の解説

元弘3年/正慶2年1333年)の鎌倉幕府滅亡後甲斐国鎌倉府管轄となったため、引き続き鎌倉街道利用された。永享10年1438年)の永享の乱鎌倉府滅亡する甲斐鎌倉の関係は薄まるが、戦国時代には甲斐守護武田氏相模国後北条氏との抗争において、甲斐伊豆駿河東部を結ぶ軍道として利用された。 『勝山記によれば明応4年1495年8月には伊勢宗瑞北条早雲)が伊豆国から鎌倉街道甲斐へ侵入し、「カコ山」(籠坂・鎌山)に陣を張った同じく勝山記によれば文亀元年1501年9月18日にも宗瑞は再び伊豆から鎌倉街道侵攻し吉田山城・小倉山富士吉田市)に陣を構えた。さらに『勝山記によれば大永6年1526年7月晦日には甲斐守護武田信虎籠坂峠の南に位置する梨木平まで侵攻し北条氏綱交戦している。 武田信玄の時代には伝馬制整備され黒駒河口船津には関所設けられ関銭徴収した弘治3年1557年11月19日に、武田信玄冨士御室浅間神社富士河口湖町勝山)において、北条氏政嫁いだ娘・黄梅院安産祈願のため船津関の廃止を、さらに永禄9年1566年)には黒駒関廃止行っている。また、戦国期には富士信仰興隆に伴い参詣者が往来する道となり、吉田河口には御師町が形成された。 天正10年1582年6月天正壬午の乱においては三河国徳川家康相模国後北条氏甲斐衆に対す調略行い多く甲斐衆が家康帰属するなか秩父往還(雁坂口)の大村党など北条氏味方する勢力現れた。鎌倉街道に近い笛吹市一宮町橋立甲斐奈神社橋立明神)は筑前原塁を有する城砦としての性格有した神社で、社家衆の大井摂元は北条方に見方した。北条氏はさらに御坂峠御坂城築城して勢力強め徳川方はこれに対して大村党や橋立明神社家衆を滅ぼしたその後北条氏信濃佐久郡から現在の北杜市域に進出して徳川方布陣し対峙するが、その最中8月12日には笛吹市御坂町上黒駒・下黒駒発生した黒駒合戦敗退している。同年10月12日には徳川北条間で和睦成立し北条氏御坂城からも撤兵した。 天正18年1590年)には小田原合戦において細川幽斎帰路に「甲州どをり」を利用しており、甲斐路にあたると考えられている。 七月十五日、相わづらふにつきて御いとま也、帰陳には甲州どをりと思ひ侍りて、あしがら山をこえて、竹の下といふ里にとまり侍りぬ、あしからの関吹こゆるあき風の やとりしらぬゝ竹の下道 十六日甲斐の内河口といふ所にとまりて、暁ふかく御坂をこえて甲府につく、その道黒駒と云所あり、ときのとき出へきさいをまつ一首 あへてふるまふかいの黒駒 しほのやま、さしでの磯を見やりて、秋のよの月もさしてのいそ千鳥 しほの山をやかけて鳴覧甲府にて雪斎・宗寿所望ありしに、 雲霧に月の山こす風邪もかな 夢の山宗寿さしきより見えれければ、頼む其名とはしらすや旅まくら さそひてかへる夢の山風 — 『東国陣道記

※この「中世後期の鎌倉街道」の解説は、「甲斐路」の解説の一部です。
「中世後期の鎌倉街道」を含む「甲斐路」の記事については、「甲斐路」の概要を参照ください。

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