中世後期の鎌倉街道
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元弘3年/正慶2年(1333年)の鎌倉幕府滅亡後、甲斐国は鎌倉府の管轄となったため、引き続き鎌倉街道は利用された。永享10年(1438年)の永享の乱で鎌倉府が滅亡すると甲斐と鎌倉の関係は薄まるが、戦国時代には甲斐守護・武田氏と相模国の後北条氏との抗争において、甲斐と伊豆・駿河東部を結ぶ軍道として利用された。 『勝山記』によれば、明応4年(1495年)8月には伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国から鎌倉街道を甲斐へ侵入し、「カコ山」(籠坂・鎌山)に陣を張った。同じく『勝山記』によれば、文亀元年(1501年)9月18日にも宗瑞は再び伊豆から鎌倉街道を侵攻し、吉田山城・小倉山(富士吉田市)に陣を構えた。さらに『勝山記』によれば、大永6年(1526年)7月晦日には甲斐守護・武田信虎が籠坂峠の南に位置する梨木平まで侵攻し、北条氏綱と交戦している。 武田信玄の時代には伝馬制が整備され、黒駒・河口・船津には関所が設けられ、関銭を徴収した。弘治3年(1557年)11月19日に、武田信玄は冨士御室浅間神社(富士河口湖町勝山)において、北条氏政に嫁いだ娘・黄梅院の安産祈願のため船津関の廃止を、さらに永禄9年(1566年)には黒駒関の廃止を行っている。また、戦国期には富士信仰の興隆に伴い参詣者が往来する道となり、吉田や河口には御師町が形成された。 天正10年(1582年)6月の天正壬午の乱においては三河国の徳川家康・相模国の後北条氏が甲斐衆に対する調略を行い、多くの甲斐衆が家康に帰属するなか秩父往還(雁坂口)の大村党など北条氏に味方する勢力も現れた。鎌倉街道に近い笛吹市一宮町橋立の甲斐奈神社(橋立明神)は筑前原塁を有する城砦としての性格も有した神社で、社家衆の大井摂元は北条方に見方した。北条氏はさらに御坂峠に御坂城を築城して勢力を強め、徳川方はこれに対して大村党や橋立明神の社家衆を滅ぼした。その後、北条氏は信濃佐久郡から現在の北杜市域に進出して徳川方と布陣し対峙するが、その最中の8月12日には笛吹市御坂町上黒駒・下黒駒で発生した黒駒合戦で敗退している。同年10月12日には徳川・北条間で和睦が成立し、北条氏は御坂城からも撤兵した。 天正18年(1590年)には小田原合戦において細川幽斎が帰路に「甲州どをり」を利用しており、甲斐路にあたると考えられている。 七月十五日、相わづらふにつきて御いとま也、帰陳には甲州どをりと思ひ侍りて、あしがら山をこえて、竹の下といふ里にとまり侍りぬ、あしからの関吹こゆるあき風の やとりしらぬゝ竹の下道 十六日、甲斐の内河口といふ所にとまりて、暁ふかく御坂をこえて甲府につく、その道に黒駒と云所あり、ときのとき出へきさいをまつ一首 あへてふるまふかいの黒駒 しほのやま、さしでの磯を見やりて、秋のよの月もさしてのいそ千鳥 しほの山をやかけて鳴覧甲府にて雪斎・宗寿所望ありしに、 雲霧に月の山こす風邪もかな 夢の山宗寿さしきより見えれければ、頼む其名とはしらすや旅まくら さそひてかへる夢の山風 — 『東国陣道記』
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