中世後期とオスマン帝国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:24 UTC 版)
「バルカン半島」の記事における「中世後期とオスマン帝国時代」の解説
バルカンという地名への言及の最も早い例は14世紀のアラブの地図に見られ、ハイモス山地(英語版)がバルカン(Balkan)という名前で示されている。西欧において「バルカン」という名称でこのブルガリアにある山地を指して使用していることが証明される最初の用例は、1490年にイタリアの人文学者・作家・外交官であるBuonaccorsi Callimacoが教皇インノケンティウス8世へ向けて送った手紙の中にあるものである。オスマン帝国による最初の用例は1565年の日付を持つ文書にあるものである。他のテュルク系部族が既にこの半島に居住するか、あるいは通過していたが、バルカンという用語でこの地域をさしたこれよりも古い文書は存在しない。バルカンの名はまた、初期のブルガール人のテュルク語に起源をもつという説も主張され、ブルガリアで人気がある。しかしこれは非学術的主張に過ぎない。バルカンという名称はオスマン帝国のルメリアで使用されており、Kod̲j̲a-Balkan、Čatal-Balkan、Ungurus-Balkani̊のように山一般を示す意味で使用されていたが、特にハイモス山地を指して使用される場合が多かった。この名前は未だ中央アジアにBalkan Daglary(バルカン山地)、およびトルクメニスタンのバルカン州の名称として残存している。イギリス人旅行者ジョン・モリット(英語版)はこの名称を18世紀の終わりにイギリス文学に導入し、またほかの著作家もアドリア海と黒海の間の広い地域を指す名称に当てはめ始めた。「バルカン」の概念はドイツの地理学者アウグスト・ツォイネ(英語版)によって1808年に創り出された。彼はバルカン山脈がアドリア海から黒海まで延びる東南ヨーロッパの中核的山岳地形であると誤って認識していた。1820年代の間に「イギリスの旅行者の間で、なおハイモスと併用されている状況ではあったものの、バルカンという名称は優先的に使用される地名となった。...古典的な地名に慣れ親しんでいないロシア人旅行者の間ではバルカンは好んで使用された用語であった。」
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