中世・戦国期の治水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:03 UTC 版)
律令国家に代わって治水を担ったのは当時経済力をつけつつあった地方の富豪(田堵負名)たちである。11世紀には富豪層が経営する開発請負業者が出現するまでになっていた。ただし、彼らは決して領域的な治水対策を行った訳ではない。12世紀頃に始まる中世社会においても事情は変わらず、荘園・公領の支配者・権利者たち、すなわち荘園領主・在地領主・受領・在庁官人らは職の体系の制約の中で自らの権利が及ぶ範囲内で治水対策を施したのである。 12世紀以降に新たに治水の担い手として登場したのは、東大寺および西大寺などの勧進僧たちである。重源や忍性に代表される勧進僧らは、勧進活動の一環として治水にも取り組んだ。勧進僧らの治水事業は、例えば備中国成羽川の開削事業などが知られている。14世紀に入り独自の自治権を獲得した村落、すなわち惣村・郷村が登場すると、これら惣村・郷村の構成員である百姓のほか国人らも自ら治水対策を講じるようになった。 領域的・体系的な治水が本格的に復活するのは戦国時代・安土桃山時代(15世紀後期 - 16世紀末)のことである。戦国時代とは、戦国大名や国人領主らの地域権力が確立し、自支配地域を領域化していく一方で他の政治勢力からの独立性を確保していき各地域に独自性の高い領国 = 地域国家が並立した時代だと理解されているが、各戦国大名は地域国家の経営者として、支配下の郷村を洪水被害から守り、自領国の安定した経営を図るため積極的に治水対策(川除普請)に取り組んだ。 また、戦国期は全国的に水害をはじめ旱魃などの災害や飢饉、疫病が頻発していた時代で、戦国期の合戦はこうした時代背景のもと発生していたと考えられている。また、合戦と関係して築城された城郭の普請は川除普請と共通する土木技術を要し、城郭と治水は相互に技術を応用して発達していたと考えられている。 この時期の代表的な治水には武田信玄が甲斐国釜無川流域に築いた信玄堤、豊臣秀吉による淀川沿いの文禄堤および伏見巨椋池の太閤堤などがある。また、濃尾平野などに見られる輪中堤も戦国時代もしくは室町時代後期に成立したとされている。 戦国期の治水は大名権力の影響力と相関し、大名権力にとって高度な技術と大規模な人足動員を必要とする本格的な治水が可能であったかとする点には議論が存在する。
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