構造と遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/15 01:57 UTC 版)
扇山の頂上に広さ約20m四方の本丸があり、周囲を腰曲輪と石垣で囲んでいる。また、西東にそれぞれ西之台・東之台と呼ばれる出城が存在する。 長岩城の全域にわたって安山岩を使った石積機構が約20ヶ所あり、石塁の総延長は約700mに及ぶ。特に斜面を上に向かって伸びる「登り石垣」(石塁)は本城の特徴的な遺構とされ、空堀も並行している。 本丸と谷を隔てて相対する側にも出城があり、石積櫓や砲座跡、陣屋跡などがある。石積櫓は文字通り安山岩を積み上げた高さ約1.5mの櫓で、銃眼を3カ所備える。この銃眼は「下から攻めてくる敵兵を撃つため」と伝えられるが当時の火縄銃の射程を考慮すると疑問視されており、少し離れた所にある弓形砲座と呼ばれる石積みの台座と合わせて、敵の様子を見張る監視所だったと推察される。なお、当時は雨露を防ぐ屋根があったと推測される。 また、本丸側と石積櫓側の間の谷川沿いに一之城戸・二之城戸・三之城戸と呼ばれる城戸(城門・虎口)が3段構えで設けられていた。一之城戸が谷川の最下流に位置しており、長岩城の北側を流れる津民川に面している。
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構造と遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 04:56 UTC 版)
角牟礼城は、毛利高政によって、中世の山城から石垣や櫓門をもつ近世の城郭に作り変えられたとされ、その遺構からは中世の城郭から近世の城郭への移行の様子をうかがうことができる。 角埋山の頂上から本丸、二ノ丸、三ノ丸の順に配置され、伝搦手門跡には穴太積み(あのうづみ)とも呼ばれる野面積みの石垣が残っている。これは、安土城にも見られるという近世の山城の特徴であるという。
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構造と遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 14:31 UTC 版)
館の構造は単郭方形館で櫓台と見られる出張部が存在した。周囲には土塁、堀などを配しているが、その構造は単純なもので鎌倉時代〜南北朝時代に見られる初期的な形態になっている。(もっとも、伯耆国における平地の城館の大半は戦国期になってもこのような形態を示している)土塁の高さは4m程で虎口も簡単な「平入り虎口」と呼ばれるものである。防御性はさほど高くはないため、日常の住まいとして使用されたと推定される。また、堀を挟んで居館部の前には馬場跡とされる平坦地が存在する。江府町教育委員会の発掘により、柱穴や排水施設などが確認されている。一部は畑地として利用されてはいるが全体の保存状態は完存に近く、良好な状態である。
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構造と遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 14:30 UTC 版)
主郭は山頂付近にあったとされ、近くの曲輪には石垣の跡が多々残っているが、その殆どが崩れ落ちている。明確な虎口、堀切の跡は無く、削平された段を連ねる構造は残っている。現在は殆ど整備されておらず、登山道も無い。また、城の麓にある石霞渓と呼ばれる渓谷は景勝地として有名である。
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構造と遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 04:29 UTC 版)
本丸を中心に、直径約600メートルの同心円状に3重に堀を巡らす珍しい構造を持つ。また、二の丸及び三の丸外に丸馬出しが計6箇所設けられており、武田氏流城郭の特徴を示している。 本丸及び二の丸跡には西益津小学校が、三の丸には西益津中学校がそれぞれ設けられ、遺構の保存状況は必ずしも良くないが、一部の水堀及び土塁が残る。また、不浄門が旭傳院(焼津市保福島680)の山門として、長楽寺村郷蔵が「史跡田中城下屋敷」の有形文化財として、それぞれ移築され現存する。 江戸時代の城絵図2点(駿河国田中城絵図・古図)が藤枝市郷土博物館・文学館に所蔵されている。 藤枝市立西益津小学校(2018年4月5日撮影) 藤枝市郷土博物館・文学館(2018年4月5日撮影) 姥ヶ池(市指定史跡 2018年4月5日撮影) 三之堀(市指定史跡 2018年4月5日撮影) 大手一之門跡(2018年4月5日撮影) 三日月堀跡(2018年4月5日撮影) 二之堀(市指定史跡 2018年4月5日撮影) 大手二之門跡(2018年4月5日撮影) 三日月馬出曲輪(2018年4月5日撮影)
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構造と遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 13:53 UTC 版)
吉見氏時代の津和野城は、霊亀山の尾根・支尾根に多数の曲輪を持つ典型的な中世山城である。当時は石垣などは無く、土塁と空堀による城だった。吉見氏は長年に渡り城の防備・拡張を続けてきたが、三本松城の戦いを前には竪堀などが大きく強化された。当時の吉見氏は、南の山口に大内氏(実質的に陶氏)・北の益田に益田氏と対立しており、南に賀年城・北に下瀬城を支城として築くことで守りを固めていた。特に、当城より直線距離で約10kmほど北方にある下瀬城とは尾根伝いに行き来する間道があったとされ、三本松城の戦いでは陶軍の猛攻に晒される津和野城から下瀬城に本陣を移している。
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