近世園部城
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但馬国出石城より移封された外様大名の小出吉親が、元和5年(1619年)に国替によって移封し、船井郡、桑田郡、何鹿郡そして上野国甘楽郡の約3万石を所有する園部藩が誕生し、小出吉親が初代藩主となった。移封した直後は宍人城を拠点としたとみられる。宍人城の城主であった小畠太郎兵衛と小出吉親は京都所司代であった板倉勝重より紹介されていた。宍人城周辺に居館を築城したようであったが、この計画は変更され小麦山周辺を居館化した。なぜ宍人城から園部城に拠点が変更になったのかについて明確な史料はないが、水運と交通の利便を考慮した可能性があると推測される。小麦山の普請が始まると、山麓における「御屋敷」築城に際して園部村周辺の住民は土地交換を行った。土豪、農民ら地域住民が協力した点が園部陣屋築城の特徴になる。小出吉親は宍人城で元和5年(1619年)から7年(1621年)11月まで過ごし、城の完成を待って入城した。徳川幕府より城と称する事を許されなかったが、小麦山の南東丘陵に方形居館、武家屋敷を構え、城下町がありその周囲には外郭線を築いた本格的な城、惣構えとなっていた。小出吉親を影で支えていた小畠太郎兵衛は宍人城に在住し続けたが、1626年(寛永3年)に260石で召出され園部城に移った。 小麦山には生身天満宮があったが、城から見下ろすのは畏れ多いとして、築城から三十数年後の承応2年(1653年)9月4日、東南へ約500m山麓に遷している。生身天満宮は菅原道真が在世中から祀られている全国にただ一つしかない神社として知られている。 藩主の小出氏は外様大名ながら、2人の幕閣に輩出している。これは初祖小出吉親の青年期に徳川家康の旗本でもあった為でもある。その後10代藩主小出英尚の時に幕末を迎えるまで、250余年にわたり一度も国替えはなかった。 10代にわたる歴代城主は、下記テンプレートの「小出氏園部藩初代藩主 (1619-1667)」も参照。 幕末の変動期に最後の藩主小出英尚は、入京して孝明天皇の皇后九条夙子の御殿准后殿を守護し、京都見廻役として京都の警固にあたっていた。 池田屋事件、禁門の変などの武力衝突が相次いで起こり、警備を厳重にする、園部は京から近く万が一の時には要街地ともなるなど、徳川幕府へ京都所司代松平定敬から老中へ進達したが改修は認められなかった。しかし、引き続き交渉を行い、慶応3年(1867年)10月に内諾を得る事が出来たが、大政奉還が行われた為正式な許可が出ず、慶応4年(1868年)1月明治政府に願い出たところ、「帝都御守衛」の為として認められた。 「このたび叡慮を以て御守衛のため、園部城地御成功仰せ蒙りなされ有り難き思召に候」 園部藩の廻状 慶応四年正月二十八日付とある。これによると、園部藩の村役人と寺院は御嘉詞の為に寺社奉行月番へ出頭するようにという廻状が出ている。慶応4年(1868年)1月28日頃から普請が始まり、明治2年(1869年)8月28日上棟式が挙行された。櫓門が3ヵ所、巽櫓や小麦山の三層櫓などの櫓が5ヵ所、堀も造成して園部陣屋は園部城に生まれ変わった。 明治4年(1871年)7月廃藩置県が断行され園部藩は廃止され園部県となり、園部城はそのまま園部県庁が置かれた。しかし園部県はすぐに廃止され京都府園部支庁となり、1872年(明治5年)に、現在まで残る建物以外は官有地や民間に払い下げ、政治機能としては役割を終えた。城の中心地は小学校となったが現在は京都府立園部高等学校の敷地となり、隅櫓や櫓門など一部の建物が現存する。巽櫓、校門(櫓門)、茶所(番所)は2017年(平成29年)に府の暫定登録文化財に登録された。
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