近世塩田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 14:36 UTC 版)
江戸時代、この地は広島藩領となる。対岸の尾道は、藩による積極的な投資で藩内随一の交易港となり、そこへ西廻海運が確立し北前船などの廻船が寄港するようになると交易港として爆発的に成長した。尾道の主要交易品は塩で、周辺には商人によって塩田が開発されていき、浜旦那と呼ばれる塩田地主・経営者が誕生した。 この島で最初に塩田を開発したのは天満屋治兵衛である。もともとは紀州和歌山藩の御用商人で、元和5年(1619年)元和歌山藩主浅野長晟が広島藩に転封するとこれに従って広島に移り、魚問屋及び酒造業で財を成した。そしてこの島の開発を藩に許可され、尾道水道一帯に天満屋新開地を整備し延宝5年(1677年)富田古浜・元禄4年(1691年)富田新浜と「富浜塩田」を開発した。この富浜塩田は昭和30年代(1960年前後)まで塩が作られている>。 その他にも、現在の尾道造船向島工場付近に元禄2年(1689年)「肥浜塩田」元禄5年(1692年)「天女浜塩田」享保15年(1730年)「小肥浜塩田」、島の南西部に元禄10年(1697年)津部田浜塩田」、島の西には「古江浜塩田」が開発されている。 この時代財を成した尾道の豪商たちは周辺の風光明媚な地に茶園(さえん)と呼ばれた庭園付きの別荘を建てた。この島にも天満屋によって海物園が造園されている。 尾道水道を縦断する渡船が出来たのはこの頃である。記録に残るものとしては、寛政から文化年間(1789年から1817年)に“兼吉渡し”が出来たのが最初である。
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