近世大名秋田氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 04:48 UTC 版)
詳細は「秋田氏」を参照 安東氏は天正17年以降、秋田城介を名乗り秋田氏を称した。愛季没後は実季が後継者となるが、天正17年2月9日(1589年3月25日)に戸沢盛安の支援を受けた一族の通季から攻撃を受け(湊合戦)、実季は由利衆の協力により反乱を鎮圧することができた。この合戦は豊臣政権から惣無事令違反とみなされ咎められたが、石田三成への工作により家の存続を許され、出羽秋田52,404石の大名(更に太閤蔵入地26,245石の代官)として生き延びることができた。豊臣政権下では、伏見築城や朝鮮出兵の際の杉板供給役を務めている。 実季は関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602年)、常陸国宍戸(現茨城県笠間市)50,000石に国替となり、慶長16年1月15日(1611年2月27日)には、従来自称してきた従五位下秋田城介に正式に補任された。 実季の子の俊季は、正保2年(1645年)に陸奥国三春(現・福島県三春町)55,000石に移され、まもなく5,000石を分家に分与して50,000石の三春藩主となった。以後、秋田氏は江戸時代を通じ大名として存続し、明治維新に及び華族令施行により華族に列し、子爵を授けられた。
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