近世大名としての佐野氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 06:31 UTC 版)
佐野房綱は豊臣秀吉に仕えて関東・南東北の大名の取次を務めた。天正18年(1590年)の小田原合戦では豊臣軍の関東への道案内を務めるとともに、唐沢山城を奪回した。小田原合戦後に秀吉から佐野家当主の地位を認められて本領3万9000石を安堵された。文禄元年(1592年)、房綱は秀吉の命を受け、富田一白(知信)の子の信吉を婿養子に迎えて隠居した。 佐野信吉は関ヶ原の戦いでは東軍に属して所領を保った。信吉は、慶長7年(1602年)に居城を唐沢山城から春日岡城(佐野城)に移した(慶長5年(1600年)に築城が開始されたともいう)。堅城として知られた唐沢山城の破却が命じられたためとされる。天明(てんみょう)(天命)宿を中心として、佐野城の城下町「佐野町」が整備され、町は碁盤の目状に整然と区画された。信吉は城下町建設とともに、鋳物師を城下の金屋町に集住させた(現在の佐野市には金屋仲町・金屋下町・金吹町などの地名が残る)。 大坂冬の陣直前の1614年、佐野信吉は実兄の富田信高(伊予国宇和島藩主)の改易に連座し、3万9000石を没収された。
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