1960年前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 08:31 UTC 版)
「ロードレース世界選手権の歴史」の記事における「1960年前後」の解説
日本のバイクは太平洋戦争後に移動手段や荷物輸送などを目的とするビジネスバイク(実用車)として発達してきた。しかし1950年代後半に軽3輪トラックが発売されて実用車としての役割を譲ることになる。そして1958年に開催された第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースを切っ掛けに日本のバイクはスポーツバイクとして発展していく。 ホンダの参戦 ホンダがロードレース世界選手権でワークス活動を開始した時(1959年、イギリスGP/マン島TT)の社長は本田宗一郎である。本田宗一郎は同じ敗戦国のドイツの復興に刺激されて1954年3月15日にマン島TTレース(イギリスGP)出場をホンダディーラーに文書で宣言し、ホンダ社員に対しても宣言する。「子供の時からの夢は、自分で造ったクルマで、世界チャンピオンになることだった。(省略)。絶対の自信が持てる生産体制も完了したいま、まさに好機至る! 明年こそはマン島TTレースに出場する決意をここに固めた。(省略)。我が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。ここに私の決意を披露し、TTレースに出場・優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君とともに誓う」(本田宗一郎) だが当時のホンダの経営状況は悪かった。1953年12月に発売したドリーム4E(16万2千円)が強い制動力を急激にかけるとエンジンが停止したりアイドリングが不安定なったりといったトラブルが頻発して販売不振に陥っていた。1954年1月に発売したセルモーター装備のスクーター ジュノオK(18万5千円)は価格が高くて売行きが悪かった。1952年に発売した自転車取付用エンジン カブFは発売当初はベストセラーとなったが、1954年には売行きに陰りが出ていた。またホンダは1948年9月に資本金100万円で株式会社化したが、ドイツ製工作機械購入のために15億円もの借入金があって経営が悪化している時期であった。しかし、1958年8月に発売したスーパーカブ C100(5万5千円)が好評を博し、翌1959年には国内出荷台数が30万台を超え、1960年には90万台、1961年には100万台を超える大ヒット商品となった。 スズキの参戦 スズキがロードレース世界選手権でワークス活動を開始した時(1960年)の社長は鈴木俊三である。鈴木俊三は1959年の第3回全日本オートバイ耐久ロードレース後に本田宗一郎からマン島TTレースへの出場を奨められ、翌年(1960年)のマン島TTレースに出場することを決意する。マン島TTレースへの出場は決めたものの、当時のスズキは舗装された自前のテストコースを持っていなかった。そこでホンダの好意によりホンダの荒川テストコース(舗装路)を借りてマシン開発を行った。この後スズキは舗装路のテストコースを建造する。スズキは太平洋戦争前から既に織機製造の株式会社としての歴史を持っていたが、それでも資金が潤沢とは言えなかった。そのような状況下でのロードレース世界選手権参戦と舗装路テストコースの建造であった。 ヤマハの参戦 ヤマハがロードレース世界選手権(WGP)でワークス活動を開始した時(1961年)の社長は川上源一である。ホンダとスズキの活躍はヤマハ社内にも影響を与えていた。ヤマハも舗装されたテストコースを持っていなかったが急遽建造する。結果としてヤマハはWGP参戦の成功によって後発メーカーながらも急成長するのだが、もし失敗していたら親会社のヤマハの経営にも影響を与える可能性がありえる状況であった。 イタリアメーカーの撤退 イタリアのMVアグスタが1961年シーズンからロードレース世界選手権(WGP)でのワークス活動を停止することを表明した。他のイタリアメーカーは1957年を最後にワークス活動を停止している。1957年はイタリアで小型乗用車フィアット500(四輪)が発売された年である。当時のイタリアでは交通手段としてバイク(二輪)は既に普及しており、次の段階として二輪から四輪への移行期に入り、二輪の需要が落ち始めて二輪産業が縮小傾向にあった。MVアグスタ社内においてもロードレースに関心を持つ人物はドメニコ・アグスタ伯爵1人だけであった。このようなイタリア国内の経済状況を反映してイタリアメーカーがWGPでのワークス活動を停止していった。
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