1960年代: 風俗奇譚創刊、新宿二丁目ゲイタウンの始まり
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「日本における同性愛」の記事における「1960年代: 風俗奇譚創刊、新宿二丁目ゲイタウンの始まり」の解説
「ゲイ雑誌#歴史」および「新宿二丁目#ゲイ・タウンとしての新宿二丁目」も参照 1960年には異性愛男性向けのSM記事がメインではあったが、男性同性愛専用ページを常設した「風俗奇譚」が創刊された。同誌には男性同性愛者に出会いの場を提供する文通欄も設けられており、ゲイの旅館の広告やレズビアン記事も載った。但しレズビアン記事の書き手の殆どは男性であり、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}女性同性愛者向けのものというより、ヘテロ男性に向けたものだと言われる[要出典]。1961年1月号からは日本で初めて常設の女装専用ページもできた。また風俗奇譚と同じ編集者が、会員制ゲイ雑誌「薔薇」(1964年7月創刊)を4年ほど出していた。 1968年、稲垣足穂『少年愛の美学』(徳間書店)が三島由紀夫の後押しもあり、第1回日本文学大賞を受賞する。彼は「A感覚とV感覚」というエッセイで、人を口から肛門に至る一つの筒に見立てた独自の一元的エロス論を打ち立て、「A感覚」という言葉を広めたことでも知られる。足穂はまた20代の『文芸時代』(1924~27年)同人の頃、同じ男色研究家でもあった江戸川乱歩と出会っている。 同年10月、澁澤龍彦責任編集でSM雑誌『血と薔薇』(天声出版)が創刊された。ゲイ雑誌ではなかったが、メールヌードや男色についても取り上げられ、三島由紀夫、稲垣足穂、高橋睦郎、植草甚一、堂本正樹らが寄稿した。その他、当時の若者のバイブル的存在でもあった『平凡パンチ』に同性愛記事が多く掲載され、その数は1965年から1970年までの間に20本前後に及んだ(平凡パンチタイトル一覧)。 1958年の売春防止法の完全施行の後、1960年代後半頃から、現在の東京都新宿区・新宿二丁目仲通りを中心とした二丁目ゲイタウンの歴史が始まった。そこで彼らは嫌がらせに耐えつつも営業を続け、芸術家や政官財の有名人を多数輩出することになる。 1960年代は権田原(ごんだわら)という公園のような場所も、都内では最も有名なゲイの出会いの場として知られていた。因みに日本では1960年代後半以降に生まれた同性愛者は異性と結婚せず、同性愛者として暮らす傾向にあると言われている。
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