1960年代後半:反ベトナム戦争と党内の混乱
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「アメリカ合衆国民主党の歴史」の記事における「1960年代後半:反ベトナム戦争と党内の混乱」の解説
1968年の大統領選挙では、ベトナム戦争反対運動の高まりを受けて民主党内の内部分裂は一層深刻さを増し、候補者選びが混乱した。当初は、ジョンソン大統領の指名獲得は堅いと見られていた。しかし、この年1月のテト攻勢は、軍事的にはベトコンの敗北に終わったものの、アメリカ世論の風向きを反戦へと転じさせた。ベトナム戦争即時撤退を掲げたユージーン・マッカーシー上院議員は、大学のキャンパスにあふれる反戦学生や知識人を集結し、3月のニューハンプシャー州予備選挙では、ジョンソン大統領に対し数パーセントのところまで肉迫した。4日後、この結果を受けて、当初は出馬を見合わせていたロバート・ケネディ上院議員も、マッカーシーと同じく反戦を掲げて出馬した。状勢が不利なことを悟ったジョンソンは、2週間後の3月31日、大統領選からの撤退を表明した。この状況を受け、現職副大統領で、ジョンソンの副大統領候補でもあったヒューバート・H・ハンフリーが、ジョンソンの政策を引き継いで大統領選に出馬した。予備選挙参戦には既に遅かったため、ハンフリーは予備選挙を行わない州での地盤固めに専念し、労働組合や首長からの支持を取り付けた(この年に民主党の予備選挙を行ったのはわずかに14州、en:Democratic Party presidential primaries, 1968参照)。 予備選挙ではマッカーシーとケネディが接戦を繰り広げていたが、6月4日、最大の州、カリフォルニアで重要な勝利を挙げたケネディが、勝利演説の会場で暗殺され、党内の混迷の度は深まった。この時点で指名に必要な1312票のうち、ケネディが約700票を集めていたのに対し、ハンフリーは既に1000票を固めていた。8月末、シカゴで1968年民主党全国大会(英語版)が開かれると、シカゴの通りや公園、会場周辺には反戦運動家が溢れた。彼らが遂には暴徒化して警察や州兵に鎮圧される中、会場内ではハンフリーが大統領候補に指名された。 一方、再びリチャード・M・ニクソンに率いられた共和党は、旧来は民主党の地盤であった南部諸州の白人保守層の取り込みを狙い、「南部戦略」を積極的に推し進めた。急速に都市化の進む南部の都市部およびその近郊の保守層・中道層に向けて、ジョンソンの「偉大なる社会」政策を批判し、公民権問題に関しては州政府への連邦政府の介入を防ぐとし、暴徒化する公民権運動や反戦運動を引き合いに、法と秩序の回復を訴えたのである。また、民主党の前アラバマ州知事で、人種隔離政策を掲げるジョージ・C・ウォレスは離党し、州権民主党の流れをくむアメリカ独立党から出馬し、一時はニクソンに次ぐ支持を獲得した。 ハンフリーはジョンソンの「偉大なる社会」政策の続行を掲げて善戦し、一般得票率ではニクソンに1%まで肉薄したが、党内の保守派、反戦派それぞれの反発や、テレビで生中継された暴動の影響からは免れられず、獲得した州は13にとどまった。特に、南部保守層の離反の影響は大きく、旧アメリカ連合国の諸州のうち、テキサス州を除くすべての州は、ニクソンかウォレスが獲得した。ハンフリーへの投票は主に北部の州からのものであったが、皮肉にも、これらの州の多くは20年前の1948年の大統領選挙で敗れた共和党が獲得した州であった。 民主党は議会の主導権を維持したが、党は今や深刻な分裂状態に陥り、1976年まで大統領選挙の一般投票率で多数派を獲得することができなかった。
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