園部陣屋時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 12:47 UTC 版)
近世園部城の当初は、徳川幕府に絵図を提出しながら進められていたようで、櫓を築造するようだったが、二重の堀や狭間を設けた塀もあるという事で、櫓の建設は見送られた。徳川幕府の制度上では陣屋という扱いになるが、規模としては惣構えで、南北約650m、東西約450mもあり、城と呼べる規模であった。 園部城にも城下町があった。1619年(元和5年)の園部陣屋と共に町場を整備した。町場の用地拡大と陣屋の防御的な効果も得るために、現在の国道9号沿いを東流していた園部川を北側に湾曲される工事を行ったとされる。名残として小出吉親の名にちなんで「意閑堤」という名称が残っている。普請した城下町は6町で、陣屋の北側と南側に位置している。北側には「宮町」、「上本町」、「下本町」、「新町」、「裏町」があり、南側には「大村町」が広がり、当初の町家数は430軒あまりであった。町の両端になる園部大橋詰と新町詰には、それぞれ番小屋を設け城下への出入り口を監視していた。 園部大橋付近には「運上」と呼ばれる、園部川舟運の拠点があったようである。また、東之辻より東の道筋にある本町は、参勤交代の大名や幕府役人等の休暇施設となっている本陣、脇本陣が置かれ城下町の中心地であった。本町の北側には裏町があり、その北側には馬場や倉庫群があった。城下町にはいくつかの寺院があり、その配置を見ると町場へ向かう道沿いにあることや、枡形と隣接していることから、ある程度の防御機能を考えての寺町の配置であると推察されている。
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