三好政権下とは? わかりやすく解説

三好政権下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 04:58 UTC 版)

柳生宗厳」の記事における「三好政権下」の解説

永禄2年1559年宗厳30歳の時、当時幕府実権握り畿内支配進めていた三好長慶が、重臣松永久秀命じて大和侵攻する。宗厳主君筒井順慶より引き留め工作として、白土奈良県大和郡山市)を与えられるが、同年8月に久秀が順慶敗走させて大和支配下においたのを機に筒井氏離反して久秀に与した永禄5年1562年3月、久秀が属す三好氏畠山根来連合軍との戦い久米田の戦い)で大敗したことを切っ掛けに、京を放棄するなど劣勢にたされるこのような状況下で宗厳は久秀の居城である多聞山城加勢入り、反三好氏勢力対抗した。久秀は宗厳加勢喜び、自らは鳥養大阪府摂津市)に陣を敷いたことを告げ「よわもの(弱者)共」が敵に城を明け渡して即座に討ち果たすので、安心して欲しいと強がっている。 三好氏苦境同年5月教興寺の戦い勝利するまで続くが、この間久秀からは宗厳離反しないよう軍事情勢続けざま伝えるなど励まし書状受けている。そうした中で宗厳は久秀の信用得てその側近となり、取次ぎとして三好家中枢への使者務めるようになっていった。 永禄6年1563年正月二十七日、久秀に従って多武峯攻める。この戦いは久秀方の敗北で終わるが、宗厳味方敗走する中「鎗を働かれ数輩」の首級挙げたとして久秀から「後口比類無き御働き」として感状与えられている。このとき宗厳は敵の箕輪与一に拳を射られ窮地に陥っているが、家臣松田源次郎鳥居相模某が与一倒して危機脱した源次郎はこの戦いで討ち死しにしたが、宗厳生涯その恩を忘れず源次郎遺児同源次郎)に剣術教え晩年新陰流印可与えた際には父源次郎武功を「比類なき働き」「討ち死にの段更に忘れ置かず候」と讃えている。 同年6月16日、久秀からの直状でかつて筒井氏仕えていた際に得た白土替地として秋篠分(奈良市)を与えられ、久秀との主従関係強化される。同じ月に長慶嫡男三好義興が病に倒れると、宗厳は久秀から書状託され弱気吐露し、義興の病状隠蔽するよう意見する主君考え三好家重臣岩成友通伝えたこのようにこの時期宗厳三好家次期当主危篤という機密情報任されており、久秀にとって最も気を許せ家臣として扱われていた様子がある。

※この「三好政権下」の解説は、「柳生宗厳」の解説の一部です。
「三好政権下」を含む「柳生宗厳」の記事については、「柳生宗厳」の概要を参照ください。

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