三好政権下
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永禄2年(1559年)宗厳30歳の時、当時幕府の実権を握り畿内の支配を進めていた三好長慶が、重臣・松永久秀に命じて大和へ侵攻する。宗厳は主君・筒井順慶より引き留め工作として、白土(奈良県大和郡山市)を与えられるが、同年8月に久秀が順慶を敗走させて大和を支配下においたのを機に、筒井氏に離反して久秀に与した。 永禄5年(1562年)3月、久秀が属する三好氏は畠山・根来連合軍との戦い(久米田の戦い)で大敗したことを切っ掛けに、京を放棄するなど劣勢に立たされる。このような状況下で宗厳は久秀の居城である多聞山城に加勢に入り、反三好氏の勢力に対抗した。久秀は宗厳の加勢を喜び、自らは鳥養(大阪府摂津市)に陣を敷いたことを告げ「よわもの(弱者)共」が敵に城を明け渡しても即座に討ち果たすので、安心して欲しいと強がっている。 三好氏の苦境は同年5月の教興寺の戦いに勝利するまで続くが、この間久秀からは宗厳が離反しないように軍事情勢を続けざまに伝えるなど励ましの書状を受けている。そうした中で宗厳は久秀の信用を得てその側近となり、取次ぎとして三好家中枢への使者も務めるようになっていった。 永禄6年(1563年)正月二十七日、久秀に従って多武峯を攻める。この戦いは久秀方の敗北で終わるが、宗厳は味方が敗走する中「鎗を働かれ数輩」の首級を挙げたとして久秀から「後口比類無き御働き」として感状を与えられている。このとき宗厳は敵の箕輪与一に拳を射られて窮地に陥っているが、家臣の松田源次郎・鳥居相模某が与一を倒して危機を脱した。源次郎はこの戦いで討ち死しにしたが、宗厳は生涯その恩を忘れず、源次郎の遺児(同源次郎)に剣術を教え、晩年に新陰流の印可を与えた際には父源次郎の武功を「比類なき働き」「討ち死にの段更に忘れ置かず候」と讃えている。 同年6月16日、久秀からの直状でかつて筒井氏に仕えていた際に得た白土の替地として秋篠分(奈良市)を与えられ、久秀との主従関係を強化される。同じ月に長慶の嫡男・三好義興が病に倒れると、宗厳は久秀から書状を託され、弱気を吐露し、義興の病状を隠蔽するよう意見する主君の考えを三好家重臣岩成友通に伝えた。このようにこの時期の宗厳は三好家次期当主の危篤という機密情報も任されており、久秀にとって最も気を許せる家臣として扱われていた様子がある。
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