三好政権での出世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 13:07 UTC 版)
兄・久秀と共に三好氏の家臣となり、兄を補佐した。謀略を駆使して活躍した悪名高い兄に対して、誠実で武勇に優れ、主君の三好長慶から信頼された。三好家中での出世は兄より早く、久秀は弟の七光りで三好家中の地位を高めたともいわれる。天文18年(1549年)に長慶が上洛すると、当時「甚介」と名乗っていた長頼は細川晴元や13代将軍・足利義輝など幕府側からの京都防衛を任され、公家衆の所領を知行として受け取る一方で、山城国山科七郷などを十河一存と共に横領している(『言継卿記』)。 天文19年(1550年)11月と翌20年(1551年)2月に義輝の後ろ盾である近江国の六角定頼を攻撃して義輝が籠もる中尾城を脅かし(中尾城の戦い)、7月14日に晴元の家臣香西元成・三好政勝(宗渭)らが丹波衆を率いて京都相国寺に陣取ると、兄と共に丹波衆を撃破した(相国寺の戦い)。
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