三好政権内における地位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:16 UTC 版)
将軍御成における久秀の仕事は、彼が御供衆として非常に多くの仕事をこなしていたことを示し、それは、久秀が幕府・将軍と三好家の間を仲介し、両者の関係を取り持ち深化させる紐帯としての役割を持っていた証左でもある。 御供衆への任命によって、久秀は三好家家臣・長慶被官として活動するのと同時に、義輝の側近のような立場としても活動した。永禄4年(1561年)、足利義輝が三好義興の邸宅に御成した際の、久秀の行動からはそれを如実に伺わせる。 久秀は、三好義興が義輝の相伴衆に任命されるとほぼ同時に御供衆に任じられ、同時期に従四位下の官位を授与され、桐紋の使用を許可されていることから、家中における地位は長慶嫡男である義興と同格に近いものだったとみられる(相伴衆と御供衆の違いはあるが)。こうした飛躍的な出世、当主の嫡男と同格の地位まで登りつめたことが、彼が三好家に下剋上をして成り上がったと後世で言われる一因ではないかと指摘される。しかし、三好家の実権は没するまで長慶が握っていた、つまり三好家の実質的なトップは最期まで長慶であり、久秀は長慶を出し抜こうとしたりその意に反した形跡はない。 また、久秀は三好長慶から大和一国の管理を任され、その権勢は非常に強く、一国の大名のような立場になっていた。
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