三好氏との確執
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義輝は帰京して以降、三好長慶ら三好氏の傀儡になることなく独自に政治決裁を行い、その政治的地位を固めていった。また、諸大名の争いに介入し、大名らに一定の影響力があることを示し、その存在感を示した。 他方、将軍に忠誠心を見せる大名が現れたことは、三好氏にとって脅威であり、警戒心を高めさせた。特に長尾景虎が永禄2年5月に上洛した際、「在京して守護する」とまで言ったため、三好氏は景虎を早々に帰京させようとしたほどであった。義輝が直接的軍事力を有していないとはいえ、三好氏の頭越しに諸国の大名と連携する事態は避けねばならなかった。 永禄7年(1564年)3月、長慶はこの年の干支が甲子であったため、朝廷に改元を申請した。長慶は将軍と同様に改元を執り行うことで、将軍を凌ぐ自身の力を誇示しようとしたと考えられる。だが、朝廷はこれに返答せず、その後も公武間で改元の話が出ていないこととから、三好氏の申し出を拒否したと考えられている。朝廷が長慶に応じてこの改元を行ったならば、義輝を無視して改元を行うことになり、義輝と三好氏の関係悪化を避けるため、義輝に配慮してこの申し出を拒否する形を取った。明治時代に至るまで、甲子の年で改元が行われなかったのはこの年のみであり、朝廷は本来は行うべき改元を見送ってまでこの政治判断を下した。このように、長慶の晩年にはその力に陰りが見えるようになった。 そのうえ、永禄年間に三好氏の側に「凶事」が続いたことも、三好氏の不安を増大させた。まず、永禄3年3月に長慶の三弟・十河一存が死去し、同5年3月には長弟・三好実休が戦死、さらに同6年8月には長慶の嫡子・義興が病没した。さらに、永禄7年6月に長慶は次弟・安宅冬康を逆心の疑いで誅殺したが、その死後に激しい後悔に襲われ、自身の病を悪化させた。 同年7月4日、三好氏の惣領たる長慶が病死した。長慶の死後、三好氏は長慶の甥で十河一存の息子・三好重存(のち義継に改名)が新たな惣領となり、三好三人衆や松永久秀、その長男・松永久通が補佐にあたった。だが、長慶をはじめとする三好氏の主要人物が死んだことにより、三好氏の権威低下は決定的なものとなり、衰運に陥った。一方、義輝の権威はこれを機に上昇し、幕府権力の復活に向けて、さらなる政治活動を行なおうとした。 同年12月以降、義輝は三管領の斯波氏の屋敷・武衛陣跡に、新たな屋敷の建築を開始した。この屋敷は京の二条に存在したことから、二条御所と呼ばれている。
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