三好氏との確執とは? わかりやすく解説

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三好氏との確執

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:57 UTC 版)

足利義輝」の記事における「三好氏との確執」の解説

義輝帰京し以降三好長慶三好氏傀儡になることなく独自に政治決裁行い、その政治的地位固めていった。また、諸大名争い介入し大名らに一定の影響力があることを示し、その存在感示した他方将軍忠誠心見せ大名現れたことは、三好氏にとって脅威であり、警戒心高めさせた。特に長尾景虎永禄2年5月上洛した際、「在京して守護する」とまで言ったため、三好氏景虎早々に帰京させようしたほどであった義輝直接的軍事力有していないとはいえ三好氏頭越し諸国大名連携する事態避けねばならなかった。 永禄7年1564年3月長慶この年干支甲子であったため、朝廷改元申請した長慶将軍同様に改元執り行うことで、将軍凌ぐ自身の力を誇示しようとした考えられる。だが、朝廷はこれに返答せず、その後公武間で改元の話が出ていないこととから、三好氏申し出拒否した考えられている。朝廷長慶に応じてこの改元行ったならば、義輝無視して改元を行うことになり、義輝三好氏関係悪化避けるため、義輝配慮してこの申し出拒否する形を取った明治時代に至るまで、甲子の年改元が行われなかったのはこの年のみであり、朝廷は本来は行うべき改元見送ってまでこの政治判断下したこのように長慶晩年にはその力に陰り見えようになった。 そのうえ、永禄年間三好氏の側に「凶事」が続いたことも、三好氏の不安を増大させた。まず、永禄3年3月長慶の三弟・十河一存死去し、同5年3月には長弟三好実休戦死、さらに同6年8月には長慶嫡子・義興が病没した。さらに、永禄7年6月長慶次弟安宅冬康逆心疑い誅殺したが、その死後激し後悔襲われ自身の病を悪化させた。 同年7月4日三好氏惣領たる長慶病死した。長慶死後三好氏長慶の甥で十河一存息子三好重存(のち義継に改名)が新たな惣領となり、三好三人衆松永久秀、その長男松永久通補佐あたった。だが、長慶はじめとする三好氏主要人物死んだことにより、三好氏権威低下決定的なものとなり、衰運陥った一方義輝権威これを機に上昇し幕府権力復活に向けてさらなる政治活動行なおうとした。 同年12月以降義輝三管領斯波氏屋敷武衛陣跡に、新たな屋敷建築開始した。この屋敷は京の二条存在したことから、二条御所呼ばれている。

※この「三好氏との確執」の解説は、「足利義輝」の解説の一部です。
「三好氏との確執」を含む「足利義輝」の記事については、「足利義輝」の概要を参照ください。

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