数掛山城とは? わかりやすく解説

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数掛山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/06 08:22 UTC 版)

数掛山城
京都府
別名 本梅城[1]、加舎城[1]、西加舎城[2]
城郭構造 山城
築城年 不明
主な城主 波多野秀親
廃城年 天正3年(1575年) - 天正7年(1579年)頃?
遺構 削平地、土塁土橋、石積、堀切[1]
位置 北緯35度1分8.1秒 東経135度28分10.5秒 / 北緯35.018917度 東経135.469583度 / 35.018917; 135.469583座標: 北緯35度1分8.1秒 東経135度28分10.5秒 / 北緯35.018917度 東経135.469583度 / 35.018917; 135.469583
地図
数掛山城
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数掛山城(かずけやまじょう[2])は、現在の京都府亀岡市本梅町西加舎(旧・丹波国桑田郡[3])にあった日本の城

概要

半国山から東南2kmほどの地点にあり、標高538m、比高240mの尾根上に位置する[1]。東に亀岡盆地、南に能勢方面が見渡せるが、城のある場所としては不自然とされる[1]

削平地には自然石が多く削平状態は悪いが、自然石の間を曲輪に上手く活用している[1]。標高490mの地点に水場があり、城の南の谷間には虎渓谷(こけたに)千軒と呼ばれる中世の寺院跡がある[1]

城主は波多野氏または森氏とされているが[1]、『丹波志桑田記』や『桑下漫録』は数掛山城主を波多野与兵衛とし、またこの周辺の上村荘は波多野与兵衛尉秀親が支配していた[4]天文22年(1553年)に三好長慶家臣の松永久秀長頼兄弟らが「波多野与兵衛尉方城」(『細川両家記』)を攻め、秀親はその撃退に成功しているが、この城は数掛山城を指すものと考えられる[4][5]

波多野秀親の子孫が建てたという「波多野勘兵衛尉宗春墓碑」の碑文によると、明智光秀による丹波攻めの際に、数掛山城主(墓碑によると秀親)とその子らは亀山で自害させられたという[6]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 高橋成計 著「城郭データ」、八上城研究会 編 『戦国・織豊期城郭論―丹波国八上城遺跡群に関する総合研究―』和泉書院〈日本史研究叢刊12〉、2000年、307頁。ISBN 4-87088-996-X 
  2. ^ a b 角川日本地名大辞典」編纂委員会 編「本梅町西加舎」 『角川日本地名大辞典 26 京都府 下巻』角川書店、1982年、501頁。 
  3. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編 『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年、1077頁。 
  4. ^ a b 福島克彦「丹波波多野氏の基礎的考察(下)」『歴史と神戸』第219号、41頁、2000年。 
  5. ^ 福島克彦 『畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館〈戦争の日本史11〉、2009年、113頁。 ISBN 978-4-642-06321-0 
  6. ^ 石野瑛 『横浜旧吉田新田の研究』武相考古会〈武相叢書 第6編〉、1936年、89 - 90頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1180902/64 

外部リンク

  • 数掛山城跡”. 亀岡市公式ホームページ (2021年7月12日). 2022年1月4日閲覧。



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